最近の経済現象をゆる~やかに切り、「通説」をナナメに読み説く連載の第13回!イマドキのビジネスはだいたいそんなかんじだ‼
なぜスポーツは言葉が通じなくても感動するのか
今年もいろいろあったが、日本人の85%くらいは、「大谷翔平で始まって、大谷翔平で終わった1年だったな」と深く深く、共鳴しているに違いない。昨年はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝の9回表、2死、走者なし。マウンドの大谷は、アメリカの主砲で所属するエンゼルスのチームメイトで最も敬愛するバッター、マイク・トラウトをバッターボックスに迎える。
1発出れば振り出しに戻り、勢いづいたアメリカが逆転する可能性は十分すぎるほどあった。だが大谷はフルカウントから空振り三振に仕留め、1点差で勝利をもぎ取った。
おそらくどんなシナリオライターも描かない結末だろう。書いてしまったら、シナリオライター生命が絶たれかねないストーリーだ。
そして年末の移籍である。メジャーリーグで最高額の年俸と最大の話題を生み出して名門ドジャースに移ったのだから、まさに豈図らんや、である。そして、水原一平氏の問題。からのドジャースでの大活躍。
振り返ってみれば、2年連続、さらに大リーグ史上4人目となるナショナルリーグとアメリカンリーグの両リーグでのホームラン王獲得。そして長い歴史で初めて達成したホームラン50本、50盗塁の「50-50」。
それにしても、野球が世界中で親しまれているスポーツだとは……。知らなかったのはワタシだけ?ではないだろう。WBCの舞台にチェコのチームが登場するなど誰が想像しただろうか。
だいたい長い歴史を持つスポーツは食文化と同じで、その国でいかに普遍化していても国境を越えるとなかなか相容れないものだ。
現代のスポーツはその壁をあっさり越える。そしてたちまち本家を上回るほどの人気となったりする。これもネットの発達のおかげだろう。
スポーツはルールが世界共通なので、言葉がわからなくても普及しやすいという点もある。逆に言葉がわからずとも誰もが同じルールで対戦できるのもスポーツの魅力だ。
いいな。感動するな。国は違えどもアスリートたちが共有している世界は共通で、言葉が通じなくても分かり合えるものだ……。夢と感動をありがとう!!と、高まったテンションのまま仕事に入ると、結構空回りしてしまうので気をつけたい。
「なんで言葉の通じない者同士で感動を分かち合えるのに、なぜウチの社員に私のいうことが通じないのかーっ!」とか。
「どうしてあの会社のあの営業マンはこちらの要望通りに動いてくれないのか??」とかと怒ってしまうことになりかねないから。
そりゃ、そうでしょ? 世界が違うんだもの。
「そうか、やっぱりトップアスリートとウチのボンクラ社員と比べるのは無理があるか…」と納得してもらっても困る。
トップアスリートが言語文化が違っても分かり合えるのは、ルールを理解しているだけでなく、世界観を共有して戦っているからだ。
本来、生まれ生い立ちが違う者同士が理解することは、実はかなり大変なことだ。
それは生物学的にもそうなのだ。 ヤーコブ・ヨハン・フォン・ユクスキュルというエストニア人を諸兄はご存じだろうか。
この長い舌を噛みそうな名前の人物は1934年にベルリンで「生物から見た世界」を上梓し、環境問題に関心を寄せ始めた人々に衝撃を与えたことで知られる。
一般的に我々人間が環境という時、目に見えて、触れて、時に香り、時に温度や湿度を変化させる草木や動物、水や空気、土壌の一切を環境と呼んでいる。
普通の人であれば、「見りゃ分かるだろう」、「触れりゃ分かるだろう」という世界だ。多少暑い、寒いというような感覚の差はあったとしても、捉えている世界は大きくズレるはずはないと思っている。
「俺の言ってることが分からないのか!」と嘆く原因は環世界の違いにあるかも
これがたとえば、犬が同じ環境のなかにいた時に、人間と同じような捉え方をしているかというと違う。それがハエであれば、もっと違う。
仮にグラスや皿の乗ったテーブルやイス、ソファ、書棚、机、電灯がある書斎の中に犬がいたとする。
その時犬の目にはイスとソファ、テーブルの上のグラスと皿しか入ってこない。
書棚や電灯は見えていない。さらにハエとなると電灯と皿とグラスしか認識できない。部屋にあるのはまったく同じ条件であるにも関わらず、である。
この犬しか認識していない世界、ハエしか認識していない世界をユクスキュルは「環世界」と呼んだ。そう、環世界とは客観的環境から主観的に捉える世界を指す。
分かりやすく言うと人が観ている世界と犬やハエが見えている世界は違うよねっていうこと。「そりゃ、犬や虫けらと、人間様は違うに決まってるだろう、何を馬鹿な」とお怒りの方もおられるだろう。
もちろん違う。が、ワタシが指摘したいのは、人間同士でも環世界が存在するということだ。
たとえば日本を初めて訪れたフランス人が和室に通され、しばらく過ごした後、そこにどんなものがあったかを思い出してもらうと、明らかに日本人なら見落とすはずのないものをたくさん見落としている。
それは見えていないのではなく、”見ても認識していない“のである。
たとえば風鈴などは音が鳴っていても、風鈴を見たこと聞いたこともないフランス人の記憶からは消されてしまう。
つまり風鈴がどんな名称で、どんな役目を持ち、自分の感覚にどのような影響を与えるものか、体感し、言語化されていないと認識されないのである。
それはフランス人と日本人の違いだけでなく、同じ日本人にも言える。生まれた場所や育った家庭、地域、年代、意識づけなどで創出される「環世界」は人によって違ってくるのだ。
とくにネットが発達してからは、自分の環世界だけで完結するような生き方も可能になっている。
ネットは知らなかった未知の感動の世界を広げてくれる一方で、世界を遮断する。どちらかというと後者の影響が大きい気がするのは、なんともいたたまれない戦争が続くからだろうか。
だから、「何で俺の言うことが分からないんだ!」と嘆く社長に対しては、それは「社員と環世界が違うから」と答えるしかない。
環世界で見ることの意味と意義
しかし逆に環世界が違うから、理解できてくることもある。異文化、異質・異能な人への理解だ。
人はそれぞれ環世界を持っていることからスタートすれば、「俺の言うこと」も「彼の言うこと」も「彼女の理屈」も「やつの怒り」も徐々に理解できるようになる。
たとえ理解できなくても、共感できなくても、環世界を前提とすれば共存や棲み分けも可能となる。
人間はだいたい20代も後半になると高周波、いわゆるモスキート音がキャッチできなくなるが、逆に聞こえる10代20代は意図的にこの高周波を聞かされると苦痛でたまらなくなる。
この可聴域の違いを利用し、コンビニ前で地べた座りをする若者を何気に立ち退かせることもできる。換言すると、音の環世界を利用して棲み分けを実現しているのである。
環世界を知ることは、思いやりセンサーや優しさセンサーの感度を上げることにもつながる。いまでいうダイバーシティとインクルージョンの感度だ。
環世界とは明言はしていないが、いま学校ではこのダイバーシティ&インクルージョンの教育が熱心に行われている。
個性や本来持った能力、あるいはその人の育った環境からくるパーソナリティを理解しようという動きだ。
たとえば、多動性障害や学習障害の子どもなどは、かつての学校教育では一顧だにもされず、「落ち着きのない子」「頭の悪い子」でまとめられ、その責任はほとんど親に求められていた。
しかしそういった障害を持った子のなかには、ある分野に優れた才能を持つ子が多いことがわかってきた。
いわゆるギフテッドという子どもたちだ(教育の世界ではギフテッドと呼ばず、タレンテッドと呼ばれることが多い)。
教育学、科学の発展がそういった事実を解明したことももちろんあるが、標準や普通とされる子たちと何が違うかという、環世界を知ろうとする優しさや思いやりが、その埋もれた才能を引き出してきたのだとワタシは考える。
人間はハエや犬と環世界を共有はできないが、人間同士の環世界の共有は限りなく可能だ。それは本人すら気づかない埋もれた才能を引き出すきっかけになる。
もしかしたら、人間と動物の環世界も共有できるようになるかもしれない。となれば、いま大きな問題となっているクマやイノシシなどの野生動物との共存にも光明が差すに違いない。
環世界を共有しようという思いがある限り。
少なくとも人間の環世界はお互いに広げることができる。
イマドキのビジネスはだいたいそんな感じだ。