ここ数年サステナブルは世界のメガトレンドとなっている。ESGやSDGs、ステークホルダー資本主義が持て囃され、日本でも短期志向がまずいことが広く言われるようになった。この流れを見るに、株主資本主義が修正され、企業活動の短期志向傾向はなくなっていくのではないかと期待する向きがあるが、現実はなかなか難しい。その理由を説明する。
日本が長期低迷した理由
2022年は後世にどのように記録されるのだろうか。終わらないパンデミック、ロシアとウクライナとの戦争、富の偏在は無視できるラインを超えてしまった超格差社会、気候変動リスク……これまで人類が推進してきた資本主義が音を立てて瓦解しようとしていることを多くの人が感じるようになった。日本もまた、現在置かれている状況を考えると、明るい未来を描くことは難しい。自分の国のことを真剣に考える若者があまりにも少なくなっていることが残念でならない。
国際的な情報分析の出版社エルゼビアは、定期的に各国の技術レベルを多分野にわたって比較している。2000年の調査では27分野でアメリカがトップで、残りの3つがドイツと日本という構成だった。ところが、2019年には23分野で中国がトップとなった。人工知能やDXなどの分野では、もはや中国に勝てなくなっているのだ。その中国のなかでも技術が蓄積している拠点が香港だ。中国のトップ10の学校のうち、5つが香港に集中している。香港中文大学、香港大学、香港理工科大学、そして香港科学技術大学など、優秀な大学が数多く集まり、ハーバード大学、スタンフォード大学、MIT、UCバークレー、カリフォルニア工科大、ジョンズ・ホプキンス大学、シカゴ大学など、アメリカのトップ大学が香港に研究所を設けるようになっている。この流れは米国だけではない。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、マンチェスター大学、ロンドン大学、インペリアル・カレッジ、こうした世界中の有力大学の多くが香港に研究所を作っている。翻って、残念ながらいまの日本にはこうしたトップ大学は来ないのが現実だ。
海外の著名大学がなぜ香港に行くかというと、米国は短期主義の権化であり、多くの民間企業は長期間の研究開発に及び腰だからだ。内部収益率(IRR)をことさら重要視するベンチャーキャピタルの性質上、たいていの投資先に要求するのは「5年ぐらいで上場、エグジットを考えろ」という時間軸に他ならない。
研究所作る=学ぶべきものがあるからだが、そもそも、なぜ日本の技術開発力は弱くなってしまったのか。
日本のコーポレート・ガバナンス・コード、構造改革、民営化、成長戦略などに見られる、短期主義の弊害を挙げることができよう。ことに「会社は株主のもの」という米国流の株主資本主義の考え方が日本にも浸透してしまったことの影響が大きい。国も政策を通して、流れを後押しした。
2001年の商法改正で自社株式取得が無制限・無期限の保有が認められたこと。
2002年の四半期開示制度に向けての動き。
2014年のコーポレートガバナンス改革によって、当期純利益に対する配当と自社株買いの総額である総還元性向の比率が、100%を超す企業が増えたこと。
同年の伊藤レポートの影響も自己資本利益率(ROE)が8%を上回るように企業がコミットすべきとなった点で大きい。
こうした政策の結果、高いROEや高配当性向企業が優良企業であるという誤認が一般化していった。高利益や高配当は良いものであり、高ければ高いほど優れた企業であると多くの人が信じているのが現状だ。この間、多くの企業が行ったのは、賃金・給与といった従業員への充当分や将来のための設備投資・研究開発費・人材育成の投資を減らすことだった。
「短期でROEを高めよ」と株主が要求した結果、多くの企業から優秀な人材は離れ、R&Dは削減され、企業の持続的成長は望めなくなった。本来積極的な投資が必要だった成長過程にある企業が、株主の要求に屈し、成長速度が停滞したと思われる事例が散見する。多くの上場企業が四半期決算の開示義務によって、中長期での投資や研究開発は避けられ、社員は派遣社員となり、製造業においては自社で工場を持つより中国などに生産を委託するEMSが横行するようになった。高配当を要求することがコーポレート・ガバナンス・コードや国際的な配当性向の基準にかなったベストプラクティスであるかのように評論する識者も多い。
日本の中間層が没落し、多くが貧困化していった要因には間違いなく、株主資本主義を推進した影響がある。世界中で格差が問題になっている背景も同様だ。
ビジネス・ラウンドテーブルによる、ステークホルダー資本主義の宣誓
ここ数年、こうした行き過ぎた株主資本主義を修正する動きが、世の中全体で取られるようになってきた。2019年8月に米国の経済団体ビジネス・ラウンドテーブル(BRT)の「ステークホルダー資本主義」の宣誓もこの文脈で捉えることができる。SDGsやESGも持続可能な社会づくりをしていこうという動きの起点には、行き過ぎた資本主義の修正があり同様だ。
ステークホルダー資本主義は、企業の持ち主は株主ではなく、顧客、社員やその家族、サプライヤー、地域社会、株主といったマルチ・ステークホルダーであるという宣言だった。米国を代表する大企業群の宣言を受けて、世界はドラスティックに反応した。翌年のダボス会議のテーマにもなり、セールスフォース・ドットコムのマーク・ベニオフ会長の「資本主義は死んだ」の言葉は有名となった。
BRTの声明後、機関投資家協議会こそ「株主は資本を配分する重要な役割を担っている」と懐疑的に見て非難していたが、投資家に属する人達の多くは支持する声と懐疑的な声に半々に分かれた。否定的な意見には、ステークホルダーを考慮する経営が蔓延することによって、株主への説明責任を避ける「風よけ」になるというものがあった。例えば、業績が悪く、株主の要求を満たせない理由をステークホルダーに配慮したからだと答える経営者がでてくるとの指摘だ。これは最もな意見であり、危惧されることだろう。
一方、日本ではコモンズ投信の渋澤健氏の「ステークホルダー共創によって企業の持続的な価値創造が実現する」という意見に代表されるように概ね賛同といった反応が見受けられた。賛同を得た理由は、日本では米国とは異なり、従来からステークホルダーが重視されてきたことが背景にある。事実、日本企業の経営者達の反応は、「この声明を機に社員にもっと配慮しようとする経営者が増えるのではないか」とする見解や『三方よし』のような伝統的な日本型経営の価値観が世界からも見直されている」「政府が規制を考える段階に来ている」と「我が意を得たり」とする声が多かった。
しかし、ステークホルダー資本主義宣誓から3年の月日を経た2022年現在、「ステークホルダー資本主義」という言葉だけが上滑りして、株主資本主義は手を変え品を変え続いているようだ。結局多くの企業経営者の諦念めいた溜息を齎しただけのものに終わっているように思える。
最優先ステークホルダーは「株主」という変わらない事実
ここ3年の動きを見るに、米国のステークホルダー資本主義とは、マルチ・ステークホルダーを大切にしましょうと言っているが、実際には、株主資本主義を持続的に推進するために、株主以外のステークホルダーも大切にしましょうという話に過ぎないことが見えてきた。従業員を酷使することは企業の生産性を殺ぐものだから、中長期では株主が儲からない。株主利益を追求するために、従業員「も」大事という考え方であり、顧客、サプライヤーも同様のことである。従業員やその家族「が」株主よりも大事だとは、BRT参画企業は言わないだろう。
結局、BRTの「ステークホルダー資本主義」宣誓ではステークホルダーのなかでの優先順位は、顧客、従業員、取引先、地域社会、株主と株主が最後に来ているが、それもポーズに過ぎなかったのだ。宣言を決議した約二百社のCEOのうちで、自分の会社の取締役会で株主は他のステークホルダーに劣後することを承認した人はいないだろう。承認したら、株主を代表している社外取締役たちなどから首にされてしまうだろう。これらは、ポリティカル・コレクトネスなのだ。自分たちは正しいことをやっていますということを見せるためのものである。
米国や西欧の資本主義のロジックにはあまりにも短期志向が深く根付いてしまっている。資本主義も共産主義も両方ともキリスト教文化から醸成されたものであり、『資本論』で言及されているのも、資本者と労働者が対立するという概念をとる。カントやヘーゲルが提唱したアウフヘーベンのように対立して新しいものが出てくるという考え方で物事を理解したがるのがキリスト教文化を下敷きにした西欧社会である。
日本には対立概念で捉える構図はなじまない。多くの会社が、社員とオーナーが対立するという想定で会社をつくりはしない。協力する前提でつくる。中世時代から近江商人が良い商売の秘訣として、「三方よし」を説いていたことを見ても明らかである。一方米国は資本家と労働者の対立を想定して会社をつくる。「ステークホルダー」が意味するところは「利害関係者」である。西欧の資本家は、労働者をできる限り安いコストで労働力を確保したい。一方労働者も会社がつぶれるくらい「俺はこれだけ給料がほしいのだ」という人がたくさんいる。こうした二者の間を取り持つためネゴシエーター・代理人、つまり弁護士が入って交渉する余地が生まれる。そして合意が契約となる。これは破るつもりでいるから、監査役・コンプライアンスという仕組みを入れるのだ。
ESGのG (ガバナンス)は株主資本主義のガバナンス
ステークホルダー資本主義と同じように、現在パラダイムと言えるほどに世界を席巻しているESGやSDGsを見るに、これもまた株主資本主義の隠れ蓑のように見える。やもすると、民間企業が真摯に取り組めば取り組むほど世界の格差は広がっていく可能性さえある。ESGを欧米の価値観というフィルターを外してみてみると、変わったものとなる。
気象サミットや温暖化枠組条約締約国会議(COP)の内容を見るに、西欧や米国の民主党、国連の一部集団は声高に「脱炭素」を推進すべしと公言している。ただ、これは世界中の合意ではない。東欧やアフリカ諸国など途上国、米国の共和党議員などは「CO₂ゼロ」を考えていない割合が多い。ザンビアに本部がある東南部アフリカ市場共同体(COMESA)各国の多くはSDGsには懐疑的である。主要メディアでは報道されないが。
一方、日本は国際会議の圧力に押されて、「2050年にCO₂実質ゼロ」に同調している。でも具体的にどのように実行していくのか、エネルギー計画を見れば、実現性を当事者たちさえ危ぶんでいるだろうことが推測される。
そもそも、世界のCO₂排出量は、米国と中国で4割近くを排出している。両国が取り組まなければCO₂は減らない。日本の排出量は世界で見れば3%に過ぎない。仮に日本でCO₂ ゼロが実現できたとしても、大勢に変わりがないのが現実である。
ESGやSDGsで得するのは誰なのか?それを理解したうえでやり方を考えよう
SDGsはMDGsと違って、政府ではなくて民間の投資でやるものだが、民間の投資の基準としてESGに従いなさいとある。このESGのG(ガバナンス)は株主資本主義の文脈上のガバナンスに他ならない。欧米の株主資本主義を推進する者にとって都合のいいガバナンスだ。世界の流れを見ると様々なESGのフレームワークができて、世の中の流れが持続可能な社会づくりに向けて着々と進んでいっているように見えるのだが、それはウォールストリートなど、短期的なリターンを求めるアクティビストが儲けるために作ったものだろう。
一見するとESGで言われる言葉は確かに世の中をより良い場所にするような考え方であることを感じる。地球環境を守ることや多様性、社会包摂を整えるといった一つひとつの項目は否定できないものだ。この誰も否定のできない旗を掲げて、その裏で実際には株主資本主義をより強固に根付かせるというのが、目論見なのだろう。
いまの気候変動の問題で、温暖化を何とかしようということまでは理解できる。それではCO2が本当に原因かといえばわからないところがある。そうではない可能性は完全に否定できないし、ファクトをもって否定する気候変動懐疑論者は多い。仮にCO2が地球温暖化を齎すに足るほどの悪因だとしても、その解決策に排出権取引をこうも安易に使う流れはおかしいのではないだろうか。排出権取引とは投機に他ならない。投機は、不動産投機でも何でもそうだが、バブルが起きるものでありバブルは崩壊を孕む。崩壊の過程でゼロサムゲームが起きてやがて中間層は没落し、貧困層を増やし、ごく一握りの超富裕層に峻別していく。今日の超格差社会の要因だ。ESGのE(脱炭素)をやればやるほど、S(社会)が分断する可能性を孕んでいる。このような自己矛盾を抱えたものが世界の潮流となっていることに、疑問を抱くだけのインテリジェンスが日本社会には醸成されていないことが問題である。
気象学の大家と呼ばれる先生方の多くは、パリ協定の2℃目標やESGを歓迎している人が多い。国を代表する専門家が肯定しているのだったら、CO₂と温暖化との因果関係に影響があると思う人も多いだろう。ただ、それはガリレオ・ガリレイが天動説が当たり前の時代に地動説が正しいと言って実際に事実が変わったように、未来社会でどのような判断が下されるかはわからないのだ。識者が語っているからという理由で、無条件に妄信すべきではない問題と言える。
ESGもSDGsもステークホルダー資本主義も現段階では、無条件で礼賛すべきものではなく、株主資本主義を追求するための隠れみのということを理解したうえで、その毒を喰らうべきだろう。日本人が考えるべきは、このパワーゲームをいかにして利するものにするかである。
プラスチックの海洋汚染が深刻化しているので水に溶ける水分活性プラスチックの利用が国連海洋会議で決められた。日本の会社は世界から言われなくてもその前から開発に取り組んでいた。三菱ケミカルなどは相当前から取り組んでいるのではないか。一番進んでいるのは日本のカネカだろう。世界のトップでは5社ぐらいが日本メーカーだが、このまま放っておくとEUもTPPも世界も日本製だらけになるというので、日本が入れないように、ドイツやフランスの企業がマーケットシェアを取れるようにルールを変えたように思えてならない。
ただ、この点に対して、日本政府は表立って何も文句を言っていないように思えるし、各社の社長も文句を言っているようには見えない。研究開発陣に命じて、新しいルールで地道に研究開発をしているだろう。国際標準やルールメイキングが下手な日本だが、このままで終わってはいられない。
国も同意したCO₂ゼロの動きを撤回することは現段階では現実的に難しいだろうから、ESGやステークホルダー資本主義で得をするのは誰かを理解したうえで、虎視眈々と巻き返しのポイントを探り、なんとか日本の国益につなげるやり方を模索していきたい。CO₂を排出しない技術を日本で開発することができれば、欧米の鼻を明かせるだろう。
強引な脱炭素の流れで経済的ダメージを受ける、地方企業が立ち上げるべき
そのためにも、まずは行き過ぎた脱炭素の動きに警鐘を鳴らす存在が日本には必要である。無条件でのESG推進、特に「CO₂ゼロ」を強引に進めることは経済を破壊してしまう可能性がある。太陽光や風力発電のみでエネルギー需要を賄うことは現段階では不可能であるし、電気料金の値上げをどこまで甘受できるのだろうか、ますます窮することになるだろう。米国の共和党がそうであるように、日本でも脱炭素を推進することで経済的ダメージを受ける中小企業、地方の工場や地方経済の担い手、及び地方議会がもっと声を上げていくことが重要だ。
ESGもステークホルダー資本主義も本当に格差を是正するものであり、持続可能な社会を実現することに繋がるのであればいいことであるし、否定する気は全くない。ただ、現在の動きを見るに、これは株主資本主義が巧妙に手を変え、仮面を変えただけのものに過ぎないように思えてならない。企業は社会の公器である。本当の意味で地球の環境保全に努め、地域を大切にし、関わるステークホルダーすべてに利潤を分配する企業が評価される価値観をcokiは醸成していきたい。
私は研究者ではないし、企業のサステナビリティ担当を経験したこともない。サステナビリティ畑に長くいた人間でもない。ただ、中小企業の声を拾ってきたライターではある。現在のサステナブルトレンドを見るに、欧米主導の価値観を無条件で礼賛し、付和雷同さながら彼らの側に嬉々として立つコンサルやスタートアップが多いことに辟易しているだけだ。もう少し、日本企業の側に立つプレーヤーがでてきてもいいのではないだろうか。ただ、悲しいかな。当初は自分もまたサステナブルトレンドに商機を見出し、ESGやSDGs、ステークホルダー資本主義を疑うことなく、全肯定していた。いまだって、このままいくと多くの中小企業がダメージを受けてしまうことが目に見えているので本当の意味でステークホルダー資本主義の社会実装を考えたいが妙案は出せていない。自分の力不足を嘆きながら、こんなところで毒づいてるのが関の山なのだ。
ただ、こんなところで負けてなるものか!