大阪府堺市、大阪中央環状線と西除川が交差する場所に、株式会社羽車の本社と工場はある。同社が封筒工業所として産声を上げたのは、1918年。それから100年以上の年月を超え、現在は温かみのある手触りとデザインで思いを届ける紙製品の製造で、国内外で注目を集めている。
四代目にあたる杉浦正樹さんは、森林資源を活用する「紙」という商品を扱う会社だからこそ、エコアクション21への登録や森林認証の取得など、環境に配慮した持続可能な会社を目指す。
企業を持続させるために、多くを学び、自分の中に法律をたくさん作らなければならないと語る現代表取締役・杉浦正樹さんに、羽車が「紙」で伝えたい思いと、会社が目指す未来についてうかがった。
時代に翻弄され続けた『羽車』の100年
バブル崩壊後、世界的にインターネットが普及し始めた時代に、杉浦正樹さんは次期社長として羽車に入社した。当時28歳、工場内に足を踏み入れたのはそのときが初めてだったという。
祖父にあたる杉浦敬二郎が、大阪で羽車の前進となる「杉浦封筒工業所」を創業したのは1918年、第一次世界大戦が終結した年だった。当時手紙は重要な通信手段として重宝され、昭和初期には海外にも輸出された。しかし、時代は第二次世界大戦に突入、終戦直前の1945年3月には、大阪大空襲によって長堀橋にあった営業所を失うことになる。終戦後に営業所は再建したものの、1955年、創業者敬二郎は60歳の若さでこの世を去った。
戦中、戦後の混乱期をなんとか乗り越えた「杉浦封筒工業所」は、父敬久の時代に「ハグルマ封筒株式会社」へと社名を変更、会社は日本の戦後復興の波に乗り、最盛期を迎えた。現代表の杉浦正樹さんが会社を引き継いだ約30年前は、デジタル化の波により封筒のみならず文房具店など業界全体が苦戦した時代だった。社内の古株たちが今後の経営に頭を抱える中、杉浦さんだけはこの時代を「幸運」と受け止めていたという。
「インターネットが普及したことで、人々は手紙ではなくeメールで連絡するようになり、『情報伝達』としての紙の役割は終わりを迎えつつありました。しかし、封筒業界には逆風と思われるこの状況を、私は差別化のチャンス、個性化のチャンスだと感じたんです」。
デジタル通信の登場は、『差別化』のターニングポイント
紙は情報伝達するために存在するんじゃない。言葉にならない思いやイメージを伝えるための器として、紙があるのだと、杉浦さんは語る。特別な人に大切な思いを伝える紙は、どんな紙でもよいわけではなく、コットンペーパーのような、特別な紙でなければならない。そこで2002年、羽車は単に情報伝達だけではなく大事なメッセージを伝えるための、オリジナル紙素材で作った封筒や名刺、手紙などの製造・販売を始めた。
「デジタルの通信は、五感で感じることができません。私たちが作るのは、受け取った相手が手触りや香り、目で感じるコミュニケーションです。大量に配ってまわる通常の名刺よりも、自分の分身として渡すような重みをもった名刺を作りたい」
サンプルとして並べられた名刺は、手で触ればわかるほど印字部分がへこんでいる。今ではほとんど見ることがなくなった、活版印刷だ。「うちには活版印刷機が10台以上あります。もう30年ぐらい前になりますが、私が羽車に入社した頃に、廃業する印刷屋さんを探しては、活版印刷機を譲り受けていたんです。当時その印刷屋で働いていた職人さんごと一緒に、うちに迎え入れたこともありました」あえて時代に逆らうようにアナログ化に走る四代目を、当時先輩社員たちは不安視していたという。
「バブル崩壊後10年は、会社としてかなりつらい時代でした。封筒の価格は暴落し、業界全体が苦戦し、他と差別化しないと死ぬ、とまで言われていた時代です。だからといって、差別化のために取り入れた特別な紙やアナログ加工はまだチョロチョロとしか売れない。
理想ばかり語っても、足元はガタガタじゃないかと、会社のなかはざわざわしていましたね」その社内の空気を、その時代を、一体どう乗り越えたのか。そう尋ねると、未だ乗り越えているのかわからない、と杉浦さんは答える。
「たぶん会社は、倒産さえしなければ、後から今やっていることが正しいことだと証明できる日が来るんです。いくらいい会社にしても、売れる商品を打ち出しても、倒産させたら後がない。社員にも、取引先にも、社会にも、何もできません。だから、取りあえずは倒れないことだけ、考えています」。
自分が考えることに自信がないので、行動指針が必要だった
羽車が注目されるのは、そのアナログで温かみのある紙製品の美しさだけではない。同社は紙製品の会社でありながら、環境省のガイドラインに基づいたエコアクション21への登録や、森林認証の取得など、サステナビリティにも注力している。早くからサステナビリティ経営に力を入れた背景には、杉浦さんの社長としての不安があったという。
「自分が会社を運営するうえで、なにか行動指針が欲しかったんです。当時は自分が考えることに確固たる自信が持てませんでした。自分の意識が低いからこそ、意識を高めるために一生懸命いろんなことを勉強したのだと思います」
SDGsが世界で掲げられた2015年以前から、羽車ではフェアトレードやエコアクション、ジェンダー平等と呼べる活動を行っている。紙という商品を扱う立場から、森林資源とは切っても切れない関係にある。だからこそ、商品づくりで余った紙をメモ帳サイズにして無料で配布したり、保育園・幼稚園に提供したりするなど、できる限りロスを減らす努力は欠かせない。
社会に貢献するために12年前から開催している工場見学も好評で、時には海外から経営者の団体が来ることもあるという。今ではどこでも見られない活版印刷機が10数台ならんだ羽車の工場は、多くの経営者やクリエイターを魅了している。
また、羽車では、10年以上前から社員ごとに20通り以上の勤務体制を認めている。ある社員は金曜休み、別の社員は午後4時上がりなど、子育てだけでなく、さまざまな価値観で働く時間やスタイルをそれぞれ選べるようにしているという。
「うちは優秀な社員がたくさんいるので、単純に辞めてほしくないんです。社員に長く働いてもらえるように、総務部には悪いと思いつつ、20通りでも30通りでも働き方を選べるようにすると決めました」
その日の取材に同席した2名の女性社員も、それぞれ自分の都合に合わせた勤務体制で働いているという。どんな社員も働きやすい職場を目指した結果、2022年時点で5年間での産後復帰率は約9割にのぼる。
「10年前、サステナブル経営を始めた頃は、社員にもなかなか浸透しませんでした。でも今は、お客様や取引先から森林認証の紙を扱っていますかと聞かれたら、全員がこれとこれです、と答えられますよ。相手も、『そんなに頑張ってるなら取引してやるか』って。今は、どんな経営をしているのかが、会社を選ぶ理由になる時代なんです」
当初杉浦さんは、自社の経営方針を大々的に外部に向かって発信していくことは考えていなかった。ラベルをつけて良く見せるためにやるのではなく、あくまでも自社改善のためにやっていると思っていたからだ。しかし、海外からサステナブル経営や BCorp認証などの概念が入ってくるにつれ、むしろ積極的に発信していくことで、社員のモチベーション向上に繋がると考え始めたという。今後は、 BCorp認証も視野に入れて取り組んでいく予定だ。
ステークホルダーと一緒の立ち位置に立ち、一緒の眼鏡をかけてみる
デジタル社会やDX化のなかで、悪者扱いされがちな「紙」。しかし、紙だからこそ、10年後も残るコミュニケーションの形を作れるはずだと、杉浦さんは語る。
「デジタルの時代だからこそ、紙は人とつながる温かさを生み出せると思うんです。バラマキ用のコミュニケーションじゃなく、手に取った相手が思わずにっこり笑ってしまうような、五感を刺激する通信手段を作ることこそが、私たちの企業の価値だと思っています」。
羽車の作る古くて新しいコミュニケーションツールは、ブランド価値を高めたい化粧品メーカーや焙煎珈琲のパッケージなどにも選ばれ、ドイツ、ニューヨーク、パリなどの海外見本市にも出店するなど、世界でも注目を浴びつつある。
祖父の興した「杉浦封筒工業所」から時代は流れ、社名を変えた羽車は、2018年10月に創業100年を迎えた。100年企業の仲間入りをしても、杉浦さんのステークホルダーに対する謙虚さは変わらない。今後は社員や顧客、取引先からのアンケートの結果を、ネガティブな声も含めて全て公開していく予定だという。
「本当に風通しのよい会社にするためには、社員やお客様、取引先などと一緒の位置に立ち、一緒の眼鏡をかけてみることが必要です。そのためには悪いところも受け入れて、改善につなげていかなければなりません。ステークホルダーの方々には、私たちが何をするかではなく、どうあるかを見ていただきたい。こんなふうに愚直に続けていくことしか、私にはできませんから」。