
14年前、日本を襲った未曾有の大災害。東日本大震災は、多くの命を奪い、町の姿を一変させた。特に甚大な被害を受けた宮城県石巻市。あの日から14年、街はどこまで復興し、今も残る課題とは何か。現地の声とともに、その歩みを追った。
3月11日午後2時46分、すべてが止まった日
2011年3月11日、午後2時46分。突如として大地が唸りをあげ、東北の沿岸地域は激しい揺れに見舞われた。揺れの収まる間もなく、沖合から黒い壁のような津波が押し寄せた。宮城県石巻市も例外ではなく、町は一瞬にして波にのまれた。
死者は1万9708人、行方不明者は2520人。津波が押し寄せた瞬間、多くの人が避難を試みたが、間に合わなかった。石巻市立大川小学校では、避難の判断が遅れたことにより、児童・教員あわせて94人が犠牲となった。校庭にいた子どもたちは、目の前で迫る津波に逃げ場を失い、命を奪われた。この悲劇は、日本の防災教育に大きな課題を突きつけることとなった。
変わりゆく街並み、復興の光と影
石巻市の復興は、着実に進んできた。震災直後は瓦礫の山と化していた町も、今では新たな住宅地や商業施設が建ち並ぶ。高台移転が進み、防潮堤も整備された。かつて津波が襲った沿岸部には、復興祈念公園が整備され、多くの人が訪れている。
しかし、一方で復興が進んだとはいえ、元の活気を取り戻したとは言い難い。震災前16万人いた人口は、現在では約13.2万人まで減少。なお、この人口減少は震災だけが原因ではなく、全国的な少子高齢化や都市部への人口流出といった要因も影響している。商店街の賑わいは失われ、空き地が目立つ地域もある。住民の間では「復興は進んだけれど、あの頃の街には戻らない」という声も聞かれる。
経済復興、水産業と新たな挑戦
石巻市の基幹産業である水産業も、震災で大打撃を受けた。港は壊滅し、漁業施設は津波で流された。しかし、地元の漁師や企業の努力により、少しずつ水産業は再生してきた。震災後、新たな技術を導入した水産加工場が次々と稼働し、業界の復興を後押ししている。
例えば、マルキチ阿部商店は、東日本大震災後の2013年に、株式会社石森商店と株式会社岡清を中心とした複数の水産業者により共同設立された。各企業の強みを活かし、鮮魚の冷蔵冷凍技術や加工技術を駆使して、付加価値の高い商品の提供に取り組んでいる。さらに、工場には世界初のCAS凍結トンネルフリーザーを導入し、食品安全マネジメント規格FSSC22000の認証を取得。高品質な水産加工品を生産し、国内市場のみならず海外への販路拡大も積極的に進めている。
また、新たな産業も生まれつつある。震災を機にスタートアップした若者たちが、観光業や食品加工などの新ビジネスを立ち上げ、地域に活気をもたらしている。震災遺構を巡るツアーが人気を集めており、訪問者に震災の記憶を伝える役割を果たしている。また、地元企業と連携し、復興支援を目的としたクラフト商品や地元特産品の販売が拡大しており、地域全体の活性化が進められている。
未来へ向けた挑戦、防災意識と地域の結束
震災の教訓を生かし、石巻市では防災教育が強化されている。小中学校では避難訓練が定期的に行われ、地域住民向けの防災講座も充実している。特に大川小学校の悲劇を教訓に、迅速な避難行動を促す取り組みが重視されている。
また、新潟県阿賀野市では、震災を経験していない世代への防災教育が進んでいる。「30センチの津波でも人が流されると知った」「避難のマークを見て行動できるようにしたい」と、子どもたちは自らの防災意識を高めている。
地域全体での防災意識の向上も進む。自主防災組織が強化され、住民同士の支援体制が整えられている。高齢者や障がい者の避難支援計画が策定されるなど、地域の結束が震災を機に一層深まっている。
日本は災害大国である。地震や台風、豪雨、火山噴火など、さまざまな自然災害が発生しやすい国土を持つ。震災の記憶を風化させないためにも、防災は国民一人ひとりの責務である。自治体や企業の取り組みだけでなく、個人レベルでの備えが不可欠だ。
復興の先にある未来、希望をつなぐために
石巻市は「防災と共生するまち」を掲げ、スマートシティ構想や再生可能エネルギーの活用を進めている。地域住民と行政が協力しながら、新たな街づくりが模索されている。
震災で失われたものは大きい。しかし、それを乗り越えてきた人々の努力が、未来への道を照らしている。