
いじめを防げなかった学校が、次に選んだのは「証拠を残させない」という対応だったのか。2026年2月1日、X上に投稿された告発は、教育現場が長年抱えてきた不信と怒りを一気に噴出させた。発信したのはDEATHDOL_NOTE。学校タブレットの回収とデータ検査によって、いじめの証拠が消されているという指摘は、学校が子どもを守る場所であるという前提そのものを揺さぶっている。
「証拠を残すな」という沈黙のメッセージ
今回の告発で最も強い反発を招いたのは、学校タブレットが朝礼時などに一斉回収され、写真や動画、検索履歴、録音データまで確認されているという点だ。これは単なる端末管理では済まされない。被害を受けた生徒に対し、「記録するな」「残すな」と暗に命じる行為にほかならない。
いじめ問題では、学校側が「確認できなかった」「証拠がなかった」と説明し、対応を先送りする構図が繰り返されてきた。にもかかわらず、その証拠を事前に排除しているとすれば、いじめを見逃したのではなく、見えない状態を作っていると言われても反論は難しい。
この投稿が炎上した背景には、過去の数々の隠蔽疑惑と重なり合う既視感がある。多くの人が「やはりそうだったのか」と感じたからこそ、怒りは一気に拡散した。
GIGAスクールが変質した管理と統制の装置
GIGAスクール構想は、本来、学習環境の格差を是正し、教育の質を高めるための国家施策だった。
しかし現場で進んでいるのは、教育ではなく過剰なリスク回避である。
いじめ動画が拡散されるたび、学校は強い批判を浴びてきた。その反省が、再発防止や初動対応の改善ではなく、「撮らせない」「残させない」という管理強化に向かった結果が、今回の告発内容だ。
被害者にとって、録音や撮影は最後の防衛手段である。それを奪われた生徒は、言葉だけで自らの被害を訴えなければならない。しかし、証言だけでは信じてもらえなかった歴史を、社会は何度も見てきた。学習端末が、被害者の声を封じる道具に変質しているとすれば、教育の理念は完全に崩れている。
500件超の報告が示す集団的隠蔽の疑い
DEATHDOL_NOTEが明言した「500件以上」という報告数は、数字の正確性以前に、その内容の一致性が問題だ。全国の複数校から、ほぼ同じ構図のタレコミが寄せられているという点は極めて重い。
いじめを認めれば、学校は説明責任を負う。公表されれば、評価や進学実績にも影響が及ぶ。そうした事情が、「問題を起こさないこと」を最優先にする体質を生み、証拠を消すという最悪の選択を正当化してきた可能性がある。
学校側から体系的な反論や説明がほとんど出てこない現状も、不信を深めている。沈黙は否定ではない。むしろ、「語れない事情があるのではないか」という疑念を増幅させている。
外圧が支持されるほど失われた学校への信頼
DEATHDOL_NOTEが掲げる「いじめ撲滅委員会」は、決して穏健な存在ではない。
隠蔽した学校を公表し、直接訪問するという手法は、私的制裁との境界が曖昧だ。それでも一定の支持を集めている理由は明白である。
学校や教育委員会が、被害者を守ってこなかったという認識が、すでに社会に広がってしまったからだ。コメント欄に並ぶのは、「学校は信用できない」「外から圧をかけるしかない」という声である。
メンバーにへずまりゅう氏や政治家が含まれるとされる点も、いじめ問題が教育現場の内部だけでは解決できない段階に入ったことを象徴している。
防犯カメラ構想は学校への最後通告 上場企業と連携したクラウドファンディング計画
2月2日朝に予告された防犯カメラ設置構想は、学校に対する事実上の最後通告と位置付けられる内容だ。投稿では、上場企業と連携し、全国の学校に防犯カメラを提供するためのクラウドファンディングを予定していると明かされ、詳細は追って発表するとされた。
目的として掲げられているのは、いじめ対策と証拠収集である。学校内部で証拠が消される、あるいは残せないのであれば、外部の仕組みで可視化するしかないという発想だ。これは支援策というより、「学校が機能しないのであれば、別の手段を用意する」という強い宣告に近い。
本来、防犯カメラは教育現場に安易に導入されるべきものではない。児童生徒のプライバシー、映像データの管理主体、閲覧権限、二次利用のリスクなど、慎重に検討すべき論点は山積している。それでもなお、この構想に一定の支持が集まっている背景には、学校や教育委員会への信頼が限界まで失われている現実がある。
「学校は証拠を消す」「相談しても守られない」。そうした認識が広がった結果、防犯カメラという最終手段が現実的な選択肢として語られ始めた。これは、学校側が長年積み重ねてきた不透明な対応への評価であり、同時に突き付けられた警告でもある。
この構想は理想的ないじめ対策ではない。しかし、学校が証拠を消さず、被害者の声を真正面から受け止めてこなかった結果として生まれた選択肢である以上、その責任は重い。防犯カメラ構想は、教育現場が自らの信頼を取り戻せるかどうかを問う、最後の分岐点になりつつある。



