「こないだ、夜遅くにNHKで、今からちょうど100年後の西暦2125年を舞台にしたSFドラマをやっていたんですよ。人類は火星に進出していて地球と両方で暮らしていて——パチさんは観ました? まだ観てない、そうですか。あんまりネタバレはしませんが、主人公の一人が盲目の女性なんです。それで彼女が今と同じように白杖を使っているんですよ。『えっ、100年後も白杖?!』って思わずツッコミを入れましたね。」
今回の雑談相手は、香川県高松市を本拠地とする企業「Raise the Flag.(レイズ・ザ・フラッグ)」で、「SYNCREO(シンクレオ)」という視覚障害の世界を変える製品を開発している中村さんと増田さんです。
(今回のソーシャルグッド雑談は2025年12月18日に行われました。)
中: 中村 猛(なかむら たけし) 株式会社Raise the Flag.代表取締役CEO。 2017年同社設立。創業動機はテレビに出演していた全盲の少女の「視えないことは“不便”なだけで“不幸”ではない」という言葉を聞き、一晩中 視覚障害の現状に関して調べるが少女の不便を解消できる製品やサービスがないことに大きなショックを受けたことから。 SYNCREOを必要とする人を1人でも減らすための新たなデバイス開発にも着手予定。
右: 増田 優子(ますだ ゆうこ) 株式会社Raise the Flag.執行役員CSO。 視覚障がい者の「視えない」を「わかる」に変える次世代感覚デバイス「SYNCREO」の事業戦略と社会実装を担当。長年の企業勤務を経て、2023年より同社に参画。女性視点も活かしながら、テクノロジーと社会課題をつなぐ役割を担う。あらゆる世代の人々が生きる喜びを感じられる社会の実現に向け、当事者や家族、企業、行政との共創を進めている。
左: 八木橋 パチ(やぎはし ぱち) バンド活動、海外生活、フリーターを経て36歳で初めて就職。2008年日本IBMに入社し、社内コミュニティー・マネージャーおよびコラボレーション・ツールの展開・推進を担当。社内外で「#混ぜなきゃ危険」を合い言葉に、持続可能な未来の実現に取り組む組織や人たちとさまざまなコラボ活動を実践中。近年は「誇りある就労」をテーマに取材・発信している。
<目次> ●SYNCREOは「見えない」を「わかる」に変える ●それは移動支援ではなく人生支援 ●50万円のデバイスは高いのか…制度の壁 ●競争か、統合か。「これができます」と言わない理由 ●突き放すやさしさ | 開発者が見ているのは「日常の一瞬」 ●誇りある就労 | 正しさを積み重ねることも。にやける人を増やすのも
SYNCREOは「見えない」を「わかる」に変える
冒頭で話題に出たドラマ『火星の女王』を、私パチも後日観てみました。完全に未来社会が舞台であるにもかかわらず、盲目の登場人物も周囲の人々も、「見えないこと」がもたらす制約に縛られている描写が印象的でした。 そんな日常を大きく変える次世代型感覚デバイスが、Raise the Flag.が開発を続けているSYNCREOです。 まずは久しぶりに会ったお二人に、開発状況を聞きました。
パチ
初めて中村さんにSYNCREOの取り組みを聞いてから、そろそろ4年。今、SYNCREOの開発状況はどんな感じですか? そろそろ発売間近?
中村
2027年3月頃にファーストバージョンを出せる見込みです。その後も改良と小型化を進め、2027年度末には広く提供できる状態にしたいと考えています。
パチ
おおーいよいよですね! お値段はいくらくらいになる予定ですか? 「補装具」として行政の費用補助の対象になったりする?
中村
本体は50万円台を目指しています。別途アプリ利用料が必要で、サブスクかチケット制かは検討中です。
自治体補助については、すでに前向きな市区町村もありますが、判断基準は自治体ごとで全然違うんですよね。
SYNCREOがどのような製品か、どんな未来を目指しているのかは、こちらの動画をご覧ください。
SYNCREO signage
それは移動支援ではなく人生支援
パチ
SYNCREOが世に出たら、どれくらいの人の人生が変わりますかね。
中村
仮に1万人が購入したら、直接的な当事者である彼らだけじゃなくて、介護や介助をしているその家族がまず変わりますよね。
それから兄弟姉妹も安心できる。
ざっくり言うと、4〜5万人くらいには直接的な影響があるんじゃないかなと思っています。
さらに、その人がたとえばカフェなどで仕事をするようになれば、オーナーや同僚、周りの人たちにも影響が出てくる。「いい働き手が来た」だけじゃなくて、「こんなにいろいろできるんだ」と気づくことで、「じゃあ自分も頑張ろうかな」と前向きな連鎖も起きるでしょう。
そう考えると、最終的には何十万人、何百万人規模の影響になる可能性があると思ってます。
パチ
中村
そうですね。世界には約11億人の視覚障害者がいると言われています。その1%が使うだけでも1,000万人。影響の広がりを考えれば、何十億人分の希望につながる可能性があります。
国や地域によっては買えないという場所もあるでしょうね。それでも、直接使えなくても視覚に障害がある人が「一人で出かけられる」「仕事や遊びを楽しんでいる」、そんなことが可能だと知るだけで前を向ける人もいるはずです。
パチ
すごいことだよね。自分の未来像が、急に前向きに描けるようになるわけだから。
「視覚障害でそんなことが起きるなら、聴覚障害だって」とか、「今までの思い込みとまるで違う人生が、自分にだってあり得るんじゃないか」って。
私は縁あって、去年一昨年の2年間、厚生労働省が令和2年に創設した「重度障害者等就労支援特別事業(以下「特別事業」)」の検討委員会メンバーとして、運用改善や支援の推進方策についての議論に加わっていました。 特別事業とは、重度障害があっても働きたいという意思と能力がある方が就労できる状況を提供するもの。ただ、最大の問題点は、この特別事業を利用するには、住んでいる市区町村がこの制度を実施しているかどうかにかかっているという点です。 国が制度を作っても、それが居住地域で採用されていなければ利用できない…。現在、この制度を実施しているのは、日本の1,741の市区町村のうち100程度に過ぎません。 (重度障害者等就労支援特別事業については、下記のTBS報道特集が現状をわかりやすく紹介しています。)
「就職して社会に貢献したい」重度障がい者の社会参加はばむ制度の壁、葛藤する女性とその家族【報道特集】|TBS NEWS DIG
50万円のデバイスは高いのか…制度の壁
パチ
手を挙げてくれている自治体もあるっていう話でしたけど、どれくらいを見込めそうですかね?
中村
おそらくは100自治体程度になるんじゃないですかね。
パチ
中村
そうですね。おそらく同じような構図です。やる自治体は徹底的にやるけど、やらないところは全くやらない積。極的な自治体と、全く動かない自治体に二極化しています。
行政内部では、「デバイスによって自立が進めば、支援コスト削減につながる」という認識もあるようですけどね。
このデバイスで、今までは「補助を受ける側」だった方が、「納税する側」に回る可能性だってありますよね。
パチ
本当にその通り。国にはしっかり考えてほしいな。
ところで、増田さんにも質問したいんだけど、増田さんは小学1年生に「Raise the Flag.はどんなお仕事をしているの?」って聞かれたら、なんて答えますか? ほとんどの小学校には同じクラスや学年に強度の視覚障害のある子がきっといないと思うんだよね。
増田
まず「目を瞑ってみて」って言います。それから目を開けてもらって、「みんなが目を瞑っているままだと、できないこととかいろいろあるよね。私たちはね、目が見えないや見えづらい人が、困っていることがなくなるように、それから知りたいことが分かるようになる機械を作っているんだよ」って説明しますね。
「SYNCREOはね、自分でできることや嬉しくなることを増やしてあげる道具なんだよ」って。
パチ
それなら1年生でも理解できそう。さっき、「2125年なのに白杖かよ」って話が出ていたけれど、その頃にはみんながSYNCREOをつけていますかね?
増田
SYNCREOも相当発展しているでしょうね。ただ、私としては装着とは違う方向性もあるのかなと思っています。
今のSYNCREOは、独自開発したカメラが周囲の物体を認識して、音や振動で距離や大きさ、形を伝えているけれど、エコロケーション(コウモリやイルカが、自ら発した小さな音や音波の反響を認識して、物体の位置や距離、形状などを認識する能力)のような、人間の感覚そのものを拡張していく支援のあり方もあるんじゃないかなって思っています。
私が働いている日本IBMでは、盲導犬のように目の見えない人を安全に目的地に導く「AIスーツケース 」の開発に携わっており、大阪・関西万博でも大きな話題となりました。 他にも、社会では「Ashirase(あしらせ)」という靴に装着するタイプのナビゲーションデバイスなど、視覚障害者を誘導する視覚障害支援ツールの開発が進んでいます。 そこでふと思ったのは、「たくさんのツールがあちこちで開発されているけれど、視覚障害者にとっては、それってありがたいことなのだろうか? ということ。 いろんなものがあるよりも、万能型のものが一つある方が本当はありがたい? …お二人がどう考えているのかを聞いてみました。
街中での実証実験の様子(これまで白杖が触れるまで認識できずにいた看板を事前に見つけることができて喜んでいる当事者の方)
競争か、統合か。「これができます」と言わない理由
中村
僕は、競争があることで、結果的に当事者にとってより良いものができるんじゃないだろうか、という考え方です。
増田
私は少し違って、もう少し統合的な動きがあってもいいと思っています。
視覚障害者の立場で考えたら、「なんでこんなに会社がたくさんあるんだろう。一緒にやってくれればもっと便利になって、早く使えるようになるんじゃないの?」って思うんじゃないかな。
パチ
市場が大きければ、目的が同じでも好みが異なる分ニーズもバラけるから、競争原理がある方が良いのかもしれないけど、バランスなのかなぁ。ところで、SYNCREOは他製品とは何が異なるんだろう?
中村
僕の理解が間違っている可能性もあるけど、AIスーツケースもAshiraseも、それぞれの特長を持っているけれど、最終的な目的は「移動支援」なんですよね。
でもSYNCREOは「何かができるようになること」をこちらが定義していないんです。
パチ
中村
視覚障害者の方たちが移動に困っているのは事実です。だから、一人で移動できるようにすることには大きな意味があります。それは間違いない。
でも、僕らが当事者の方たちと開発を進める中で、すごく感激してもらったり本当に嬉しかったと言ってもらえたりするのは、「お店で店員さんが置いたグラスの位置がわかった」だとか、「差し出されたグラスと乾杯ができた」みたいな、もっと日常のことなんですよね。
つまり、SYNCREOは視力がなくても「わかる」ように作り込んでいるだけなんです。「これができます」と僕らはあまり言わない。言いたくない。
「視えないから」とこれまであきらめていたさまざまなことが変わることを、使う人が自分で見つけていく。僕ら開発者は、その彼らの喜びを一緒に増やしていきたい。
パチ
そうか! 視覚や聴覚って、そもそも何か特定の目的だけのためにあるわけじゃないもんね。いろんなものが組み合わされて、自分の可能性を広げていくんだもんね。
今の話、すごくいい。感激しちゃった。SYNCREOの本当の価値を掴んだ気がする。
突き放すやさしさ | 開発者が見ているのは「日常の一瞬」
以前Raise the Flag.の皆さんに日本IBMオフィスに来ていただき、SYNCREOの体験会をしていただいたことがあります。 それをきっかけに、以来IBMのAIエンジニアやデータサイエンティストなど数名が、プロボノでSYNCREOへのAIの組み込みとエンハンスメントを行っています。 彼らの活躍についても聞いてみました。
パチ
8月にRaise the Flag.を追ったドキュメント番組『見えない世界を変える〜視覚障がい者とつくる新たな未来〜 』が放送されたじゃないですか。
IBMの同僚や元同僚たちが映っている場面を見て「おー、みんな頑張ってる!」と嬉しくなりました。
10月の大阪・関西万博のSYNCREO出展のあとも、「社会にダイレクトに役立つプロダクトに携われて嬉しい、誇らしい」って彼らが言っている姿を目にして、胸が熱くなりました。ありがとうございます。
増田
いや、私たちの方こそお礼を伝えたいです。パチさんにつないでいただいたご縁で、本当にSYNCREOがぐぐっと進化したし、なによりもみんなすごく良い方たちで、お陰ですごくいいチームが作れています。
パチ
チームといえば、お二人は特に大事にしているコミュニティーとか、モチベーションを与えてくれる関係性ってありますか?
中村
んー。僕はやっぱりVC(ベンチャーキャピタル)の方たちかな。他はあんまり…。
増田
中村さんは人生すべてをSYNCREOにかけているからね。生活すべてがSYNCREO中心に進んでいるって感じで。
私は、もちろん当事者の方たちが喜ぶ姿もそうですけど、2人の息子たちの存在も大きいですね。仕事の話をする私に「すごいやんお母さん」「めっちゃええことしてるやん」って嬉しそうに言ってくれることがすごく力になっている。
私の場合、誰かのためになっていることも大事だけど、自分が楽しめているかどうかがすごく大事で。
もともと福祉分野に関わりがあったわけでもないので、「私でいいのかな。ここで役立てるかな?」と悩んでいた時期もあったんですけど、今となっては自分が輝けるRaise the Flag.という場所にいることができて嬉しいです。
パチ
中村さんは当事者の方たちとの関係性も相当深いんじゃないの?
中村
そうでもないですよ。あまり密になり過ぎないようにしてます。影響を受けすぎたくないというのもあって。
ただ、一緒に旅行に行ったりすることもあって。そういうときはいろんな発見というか、気づきがありますね。先日もちょっとしたお願い事をされて、「ああ、そうか。こういう小さな困り事があるのか」って。
…一方で、「そこまで寄り添えんわ」って思いも浮かぶんですけどね。
増田
中村さんも、根っからの福祉の人ってわけじゃないしね。でも、だからこそ「便利なものを渡したい」って想いを強くできるところもあるんですよね。
だって、親みたいにずっと付き添えるわけじゃないし。「その人がいなくなったらどうなるの?」って、「突き放すやさしさ」みたいなものも必要かなって。
そこを私たちはテクノロジーの力で解決してあげたいなって。
…まあ実際は、中村さんはかなり当事者さんにコミットしていますけどね。口では「めんどくさい」って言いながらも(笑)。
関西・大阪万博会場でのSYNCREO開発チームの集合写真(中央はご来場いただいた方)
誇りある就労 | 正しさを積み重ねることも。にやける人を増やすのも
パチ
最後に、最近「お約束」にしている質問を。あなたにとって誇りある就労とは?
増田
やっぱり誰かの役に立っている実感が持てること。寝る前に「今日も楽しかったな」って。
SYNCREOって、関係する人たちに喜びと安心を与えるプロダクトだなって思っていて、それはちょっと離れた人まで、少し「にや」っとさせてしまうことが多いんですよ。
私にとっては「にやける人を増やせる」のが誇りある就労かな。
中村
誰かがヒーローになれる瞬間を生む事業に携われていることが僕にとっての誇りある就労ですね。ただ、正直言うと、今は誇りよりも「正しさ」とか「適切さ」をすごく意識しています。
「SYNCREOすげーっ!」って言ってもらうだけじゃもうダメなフェーズに来ていて。資本政策とか調達とか、誰にどれだけのストックオプションを付与するかとか、そういうややこしいことが山ほどあって。
でも、全部SYNCREOのためだし必要なことなんです。誰かがやらなきゃいけないし、今それができるのは自分だけです。
関わった人全員が、最後に笑って終われるように。それが今の誇りです。
中村さんを最初に見たのは、経済産業省などの複数省庁が関係する大きなピッチコンテスト(ビジコン)でした。 「それではRaise the Flagの中村代表よろしくお願いします。スタート!」 おもむろにプレゼンが始まったものの、30秒もしないうちに機材トラブルが発生し、用意していた動画がスタートしない…。数百人の観客と、動画配信の先にいるであろうその数倍の視聴者…。 そんな中、さほど慌てる様子も見せず、どこか「ふてぶてしい」ほど落ち着いた様子で仕切り直すと、最優秀賞を受賞されていました。 それ以来、年に1〜2度会っていますが、会うたびに「まだおれの知り得ない何かを奥深くに持っていそう」と感じます。本当に「不思議な魅力」のある人です。 次に会うのも楽しみですし、そのときにSYNCREOがどうなっているか…。想像するとにやっとしてしまいます。