福建の無名青年が“帝国”の頂点に立つまで

プリンス・ホールディング・グループ会長、チェン・ジー(陳志)は1987年12月、中国福建省に生まれた。現在37歳。表向きは華やかなコングロマリットのトップであり、カンボジア政府から「公爵」(Duke)に相当する名誉称号まで授与された人物だ。しかしその経歴を遡ると、違法な詐欺事業を影で率いた“アジア最大級の詐欺組織の首領”として米英当局に追われる影も浮かび上がる。
若い頃のチェンは、家族の商売を手伝いながら、地元でネットカフェを経営した。ビジネスセンスは早くから発揮されていたとされるが、当時の彼は国際金融や政治と縁のない、どこにでもいる若い商人にすぎなかった。
転機は2011年前後、東南アジアへ向けられた中国マネーが急膨張していた時期である。チェンは思い切ってカンボジアに渡り、現地の急速な都市化と不動産バブルを直視し、そこで自身の人生を賭け始める。
カンボジア移住と急成長 ネットカフェ店主から“都市をつくる男”へ
チェンがカンボジアで選んだのは、不動産だった。プノンペンから沿岸のシハヌークビルまで、国全体が開発の波に飲まれていた時期である。彼は地価の高騰を見越して次々と開発を進め、2015年にはついに太子ホールディンググループ(Prince Holding Group)を創業した。
このグループは後に、プノンペンのランドマーク商業施設「Prince Plaza」の建設を含め、20億ドル規模の不動産事業へ拡大する。“静かな海辺の街”だったシハヌークは、数年で高層ビルとカジノが立ち並ぶ都市へ変貌し、その影には常にチェンの資本があった。
成功は不動産だけにとどまらず、彼は金融へも進出した。小口金融を母体に銀行免許を取得し、Prince Bank を設立。無名だった青年は、カンボジア全土に影響力を持つ「商業帝国の主」へと変貌していった。
光の部分とともに育った“闇の帝国”
だが、米司法省が公開した訴追資料は、もう一つのチェンの姿を示している。不動産や銀行の裏側には、少なくとも10ヶ所以上に及ぶ詐欺の拠点が存在したという。そこでは、海外から連れ込まれた人々が監禁され、投資詐欺に従事させられていた。
米英当局の文書は、園区内で数百台から数千台の携帯電話が稼働し、世界各国のSNSアカウントを操作する“ハイテク詐欺工場”の実態を伝えている。人身売買によって連れ込まれた労働者は、逃げれば暴力、従わなければ拷問と脅迫されたという証言もある。
司法次官補ジョン・アイゼンバーグは、「この犯罪帝国は、人間の苦しみの上に築かれている」と断じた。
違法収益は暗号資産、オンラインギャンブル、オフショア会社を経由して“洗浄”され、英国では1億ポンド規模の不動産が凍結された。最終的に、米国はチェンが保有していたとされる12万BTC(約150億ドル)の押収を発表した。これは暗号資産史上でも最大級の没収である。
カンボジア政界の奥深くへ “経済の恩人”から公爵へ
チェンはカンボジア経済に莫大な投資を行い、その財力は政治空間にも深く入り込んだ。
2017年、彼は内務省顧問に任命される。これは大臣級に準ずる地位とされ、王室からの勅令によってその存在が正式に認められた。その後、フン・セン元首相の私的顧問を務めたとされ、親子二代にわたり最高権力層との近さを維持した。
2020年には、カンボジア政府から「公爵(Duke)」レベルの名誉称号が授与された。王室が重要な貢献をした平民に授ける、民間人に与えられる最高位の栄誉である。
豪奢な宴席に招かれ、慈善事業の看板を掲げ、政界と財界の“座上の賓客”として扱われる。その時、彼はすでに「華人起業家」ではなく、国家の中心に入り込んだ権力者だった。
国際制裁の嵐 守られた帝国の終わりは来るのか
しかし、米英当局の制裁発表以降、情勢は一変する。カンボジア内務省は「Prince Group は国内法を遵守している」と説明し、チェンへの待遇は他の大規模投資企業と変わらないと述べた。だが裏側では、政界が慎重な態度を取っていることが見て取れる。
チェンが築いた政商のネットワークは、依然として同国のエリート層に深く根を張っている。カンボジアが国際詐欺の温床として批判を浴びる中、当局がどこまで踏み込めるかは不透明だ。
かつて“避難所”であったカンボジア。その安全地帯は今、米英の圧力によって揺らぎ始めている。
チェン・ジーとは何者なのか
福建の無名青年は、不動産バブルの波に乗り、金融に触手を伸ばし、カンボジア政界の最奥へ入り込んだ。そして同時に、詐欺、人身売買、マネーロンダリングが混ざり合う巨大な犯罪ネットワークの頂点に立ったとされる。
彼の成功は、地元経済の発展と国際犯罪の拡大という相反する二つの現象の上に築かれている。
それは、「国家と犯罪の境界線を曖昧にする人物」として世界が注目せざるを得ない理由でもある。
チェン・ジーとは何者なのか。
それは一人の青年が富と権力を手にし、国家に取り入り、そして国際社会に追われる存在へと変貌していく過程そのものだ。
華やかな表舞台と暗い地下世界が、奇妙に共存する人物。それが、プリンス・グループの会長チェン・ジーの実像である。



