ログイン
ログイン
会員登録
会員登録
お問合せ
お問合せ
MENU

法人のサステナビリティ情報を紹介するWEBメディア coki

【追悼】村山富市元首相が死去 「村山談話」で戦後日本の礎を刻んだ“庶民派宰相” 101歳

コラム&ニュース コラム
リンクをコピー
村山富市
DALLーEで作成

「戦争への痛切な反省と心からのおわびを表明します」。戦後50年の節目にそう語った元首相・村山富市さんが17日午前、大分市内の病院で老衰のため亡くなった。101歳。眉の濃い笑顔と飾らぬ語り口で親しまれた“トンちゃん”は、戦争と復興を生き抜いた最後の「庶民派総理」だった。

 

 

戦火を越え、労働現場から政界へ

大分県大分市浜町。瀬戸内の潮風が吹く港町で、1924年に11人きょうだいの六男として生まれた。
貧しい漁師の家で育ち、昼は働き夜は学校に通う日々。学徒出陣で熊本に召集され、終戦を迎えたとき、まだ21歳だった。

戦後、明治大学専門部政治経済科を卒業。帰郷後は県職員労働組合の書記として活動し、労働者の声を代弁する存在となる。やがて政治の道を志し、大分市議、県議を経て1972年に衆院選で初当選。社会党の国会議員として、福祉・労働・平和を掲げた政策に取り組んだ。

「政治は国民の暮らしを守るためにある」。その信念は、戦争と貧困を知る原体験から生まれていた。

 

自社さ連立政権の首班に “想定外”の宰相誕生

1994年、自民党・新党さきがけとの連立により「自社さ政権」が誕生。社会党出身の村山氏が首相に就いたのは、戦後47年ぶりのことだった。
その瞬間、日本中に驚きが走った。本人も「まさか自分が首相になるとは」と語っている。穏やかで柔和な印象の裏に、信念と現実のはざまで揺れる政治家の姿があった。

阪神淡路大震災、オウム真理教事件、円高不況。日本が未曾有の危機に直面するなか、村山内閣は難しい舵取りを迫られた。初動対応の遅れは批判を受けたが、のちに彼は「決断しなければ政治ではない」と静かに語ったという。

 

「村山談話」日本の戦後を照らした言葉

1995年8月15日。戦後50年の節目に、首相官邸で発表された一つの談話が、歴史に刻まれた。
「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れた。植民地支配と侵略により、アジア諸国に多大な苦痛を与えた」。
その言葉には、戦争を体験した一人の政治家としての痛切な思いがあった。

この「村山談話」は、以降の内閣にも引き継がれ、日本の公式見解として国際社会に共有された。村山氏は後年、「未来志向とは過去の清算の上に成り立つもの」と語っている。

 

理想と現実の狭間で。自衛隊・安保政策の転換

社会党の理念「自衛隊は違憲」を覆し、「自衛隊合憲」「日米安保堅持」を明言したのも村山政権だった。
党内の批判は大きかったが、彼は「国を守るための現実的判断」として受け止めた。理想を掲げつつ、国の進むべき道を冷静に見極めようとする姿勢があった。

退陣後も、慰安婦問題への取り組みやアジア女性基金の理事長として活動し、アジア諸国との対話を続けた。100歳を迎えた2024年には、「自然体で家族と過ごせることを幸せに思う」と語っていた。

 

大分の“トンちゃん”として

地元・大分では「トンちゃん」の愛称で親しまれ、街を歩けば誰にでも声をかける。労働者の食堂で昼食をとり、市民集会に足を運ぶ姿は晩年まで変わらなかった。
「足元の暮らしを見つめる政治家」 その生き方は、政治の現場に人間味を取り戻そうとする努力そのものだった。

 

村山富市という“時代の証人”

101年の生涯を閉じた今、村山氏は戦争と平和、理念と現実の狭間を生き抜いた「昭和最後の政治家」として、その存在感を残した。
自らの信条を誇示することなく、静かに民意を見つめ続けた政治家。戦後日本の歩みとともにあったその人生は、令和の今もなお、問いを投げかけている。

 

Tags

ライター:

広島県在住。福岡教育大学卒。広告代理店在職中に、経営者や移住者など様々なバックグラウンドを持つ方々への取材を経験し、「人」の魅力が地域の魅力につながることを実感する。現在「伝える舎」の屋号で独立、「人の生きる姿」を言葉で綴るインタビューライターとして活動中。​​https://tsutaerusha.com

関連記事

タグ

To Top