
永野芽郁がショートカットになったという一枚の写真がネット上で静かに広がった。長年、彼女の象徴でもあったロングヘアは跡形もない。
新作の役づくりのために“ばっさり”切ったという報道とともに、Netflix映画「僕の狂ったフェミ彼女」で主演を務めることが発表された。
韓国の大ヒット小説を原作とする本作は、恋愛と価値観が激しくぶつかり合う現代を、そのままの温度で写し取ろうとしている。永野が挑む新境地に、視線が集まっている。
髪を切った理由。永野芽郁が向き合う“彼女”の痛み
照明の落ちたスタジオ。鏡の前に座る永野の肩にそっと布がかけられ、ハサミが静かに持ち上げられる。刃が髪を断つ音が響いた瞬間、「この役に賭けている」という意思が画面越しにも伝わってくるようだった。
永野が演じるのは、ある出来事を境にフェミニストとして覚醒していく女性。
彼女の価値観は時に鋭く、時に弱さをのぞかせながら“僕”との再会と対立を迎える。本作は、そんな男女の葛藤をコミカルさの裏に潜む痛みとともに描いていく。
ショートカットの新ビジュアルは、まさに“彼女”そのものだった。これまでの透明感あるイメージとは異なる“強さ”と“揺らぎ”が並走し、永野のキャリアに新しい色を加えている。
原作が抱えた熱と、韓国社会の空気感
ミン・ジヒョンの小説「僕の狂ったフェミ彼女」は、韓国で刊行されるや否や爆発的ヒットを記録した。猟奇的な彼女のフェミニスト版と呼ばれる一方で、その本質はもっと深い場所にある。
恋愛の古いルールに息苦しさを覚える女性。
その変化を受け止めきれず、戸惑い、傷つき、距離を置こうとする男性。
この構図は国境を越え、日本でも翻訳版が重版となり、若い世代を中心に強い共鳴を呼んだ。原作を読んだ人なら、主人公たちの“痛いほどのリアル”に覚えがあるはずだ。儒教文化の重さ、社会の競争、恋愛観のズレ……。原作はそのすべてに切り込んだ。
今回の映画化について原作者は「世界中の女性と男性へ、新しい問いを投げかける作品になってほしい」とコメントしている。
監督・小林啓一が見据える“現代の恋愛”の難しさ
小林啓一監督は「恋は光」や「殺さない彼と死なない彼女」など、価値観の衝突を精緻に描く作風で知られる。
この作品に出会った当時の衝撃を、監督はこう語っている。
「タイトルは過激に見えるが、僕自身の価値観の“多面性の至らなさ”を突きつけられた」
恋愛はただの感情ではなく、個々の人生観と価値観の交差点だ。
監督の言葉からは、そんな思いが読み取れる。
監督は企画が動き出した3年前から脚本を練り続け、永野の起用とともに構想は一気に立体化したという。
永野のショートカット姿が公開された瞬間、プロジェクトが本格的に動き出したことを実感した人も多いだろう。
揺れる世論と、それでも前へ進む作品の熱量
SNSでは、永野の起用を巡って賛否が渦巻いている。
ある者は、彼女の演技力や役との親和性に期待を寄せ、
ある者は、最近のスキャンダルを理由に“作品に集中できない”と述べている。
しかし、Netflixは地上波とは異なる独立性があり、企画の進行スピードも長い。多くの作品と同じく、本作の主演も数年前から内定していた可能性が高い。
議論が巻き起こる作品ほど社会性が強い。
この物語が扱うフェミニズムや男女の距離感は、いまの日本でも避けて通れないテーマだ。
永野の挑戦が観客にどう受け止められるのか。それは2026年の配信を待つほかない。
ただし、監督・原作・キャストが共通して語るのは、対立ではなく対話の物語であるということだ。
問いかけられているのは観客の側だ
原作者ミン・ジヒョンは、原作の本質をこう語る。
「男女の恋愛はもう不可能だと言いたいのではない。
もっとよく愛し合うために、何を語り合うべきなのかを問いたい」
恋愛の主役はいつの時代も男女二人だけだ。
だがその背景には、無数の価値観、思い込み、社会の空気、そして沈黙がある。
本作は、それらを沈めたままにせず水面まで引き上げ、「本当はどう感じている?」と観客自身に問う作品になるだろう。
永野が髪を切ったのはただの演出ではない。
役の人生と痛みを、自分の身体に刻み込むための覚悟でもある。
この映画が描こうとしているいまの恋愛の輪郭が、そこに重なって見える。



