
岩手県北上市の名湯「瀬美温泉」で起きた従業員襲撃事件。その背後には、今夏の猛暑と山の実りの凶作があった。人を襲い、さらには捕食したツキノワグマ――。その胃の中から見つかったのは、人の頭髪と皮膚片。自然と人の境界が崩れ始める中、静かな温泉地で起きた惨劇が、山里の現実を突きつけている。
トンビが導いた発見――静寂の山に響いた銃声
10月17日朝、岩手県北上市和賀町岩崎新田の山あい。紅葉が色づき始めた谷に、ヘリコプターの轟音が響いていた。
空を見上げたハンターが、異様な光景に気づく。川沿いの林の上空を2羽のトンビが同じ一点を旋回していたのだ。
「ヘリが低空で飛んでいるのに、トンビが逃げない。下に何かあると思いました」とハンターは語る。
その直下の雑木林で見つかったのは、「瀬美温泉」従業員の笹崎勝巳さん(60)の遺体。そして、すぐそばには体長約140センチ、体重80キロの雄のツキノワグマが倒れていた。クマはハンターらによって射殺された直後だった。
笹崎さんはかつてプロレス団体でレフェリーを務めた温厚な人物として知られていた。静かな温泉地に、想像を絶する惨劇が起きていた。
「戻らない従業員」 露天風呂での異変と血痕
異変が起きたのは前日の16日朝。笹崎さんは午前9時ごろ、夏油川沿いの露天風呂の清掃に向かった。
「毎日の日課でしたが、その日に限って戻らなかった」と温泉関係者は語る。
午前10時半、様子を見に行った同僚が、川辺の柵付近に血痕を見つけた。姿は消え、残されたのは清掃道具と血の跡だけだった。午前11時過ぎ、警察に通報が入った。
捜査員が現場に到着すると、露天風呂の周囲には黒っぽい肉片が三つ落ちており、川の方へ引きずられたような跡が続いていた。
夏油川の対岸の茂みには足跡が残っており、「クマが襲い、遺体を運んだ可能性が高い」と判断。夜間は危険として、翌朝に捜索が持ち越された。
銃声三発、そして沈黙――“人食いグマ”との遭遇
翌17日午前8時。北上市猟友会の鶴山博会長のもとに19人のメンバーが集結した。
「警察と二手に分かれ、川を挟んで捜索しました」と鶴山氏。
トンビが旋回する地点に向かった7人のハンターと警察官が河畔を進む。午前9時10分、先頭のハンターが雑木林を登った瞬間、乾いた銃声が山中に響いた。
「草むらで何かが動いたと思ったら、突然クマが立ち上がり、土手を駆け上がってきた。『殺(や)られると思った』と彼は言っていました」と仲間が明かす。
最初の一発がクマの左こめかみに命中。クマはのたうち回り、土手を転げ落ちて笹崎さんの遺体と重なるようにして息絶えた。
「轟音玉を鳴らしても逃げず、遺体のそばから離れなかった。ご遺体はうつ伏せで、背中には深い爪痕がありました」と現場のハンター。
人間に強く執着したその行動は、明らかに“異常”だった。
胃の中から人の組織片――飢餓と環境変化の連鎖
解剖の結果、クマの胃から人の頭髪や皮膚片が見つかった。植物片は一切なく、人を捕食していたと断定された。
鶴山会長は「肉を裂いても脂肪がほとんどなかった。この時期、通常は5〜10センチの脂肪を蓄えているが、骨が浮き出るほどやせていた」と語る。
今夏、岩手県内では記録的な猛暑と雨不足が続き、クマの主食であるブナやミズナラの実が大凶作となった。
山に食べ物がないまま秋を迎えたクマたちは、餌を求めて人里へ下り、畑や民家、果ては人間の生活圏にまで出没するようになっている。
実際、瀬美温泉のわずか9日前にも、約2キロ離れた山中でキノコ採りの男性(73)の遺体が発見された。遺体の損壊が激しく、警察は「同一個体による襲撃の可能性が高い」とみている。
さらに、温泉から約9キロ下流の和賀町岩崎地区では、10月初旬に民家の倉庫へクマが6回侵入。玄米1トン袋を食い破り、車を乗り越えてまで侵入を繰り返した。
「血の跡が点々と残り、夜は眠れなかった」と民家の主は語る。
飢餓に追い詰められたクマたちが、人との境界を越え始めていた。
人と野生の境界が崩れるとき――共存の危機
岩手大学の山内貴義准教授(動物生態学)は、「ツキノワグマは基本的に草食性で、生きた人を襲うのは極めて稀。だが、飢えと人慣れが重なると行動が過激化する」と指摘する。
「山の実りが減り、クマが人間の生活圏を餌場と認識し始めている。人の匂いを覚えると、次第に恐怖心が薄れていく」とも分析する。
もし遭遇した場合の対処法について、山内氏は次のように警告する。
「100メートル先に見かけたら大声を出さず、静かに後ずさりを。市街地なら車や建物に逃げ込む。逃げられない場合はうつ伏せになり、腹や首を守ることです」
岩手県内では今秋、クマの出没通報が300件を超えた。県南部では夜間の道路や住宅地でも姿が確認されている。
事件後、瀬美温泉は露天風呂の営業を一時停止。北上市は入山自粛を呼びかけ、「クマ鈴やスプレーを携帯してほしい」と警告を強めた。
かつて「人と自然が共にある」と信じられてきた東北の山々。だが、温暖化と環境変化が進む中で、その均衡は確実に崩れ始めている。
飢えた野生が人の世界へと侵入したとき、どちらが被害者で、どちらが加害者なのか――。
瀬美温泉での惨劇は、自然との共存を問う重い問いを残した。



