
幻冬舎の編集者・箕輪厚介氏が、自身のX(旧ツイッター)で週刊誌の報道姿勢を強く批判した。発端は起業家の溝口勇児氏による「結論ありきの取材で悪者を作る週刊誌」発言を受けての反応。
箕輪氏は「人の人生を金儲けの道具にする週刊誌と徹底的に闘います。日本の害悪」と投稿し、来週にも動画での発信を予告した。
メディアと個人が直接発信でぶつかる構図は、SNS時代における報道のあり方そのものを問うものとなっている。
「知る権利」の陰で揺らぐ「知らない権利」
今回の発言は、日刊スポーツが報じた内容でも確認されている。溝口氏が10日にXで「結論ありきの取材」を批判し、「愉快犯的に週刊誌が攻撃してくるなら、俺たちも彼らが一番嫌がることをする」と投稿したことがきっかけだった。これに呼応する形で箕輪氏は11日、「来週、週刊誌に対しての動画をアップします」と宣言した。
週刊誌の報道手法をめぐっては、「知る権利」を盾にした取材の行き過ぎが以前から問題視されてきた。とくに芸能・文化・経済分野では、本人の許諾を得ないプライベート報道が“興味本位の見世物”になっているとの批判が絶えない。一方で、誤報や過剰報道による損害に対しての法的救済は軽微で、名誉毀損訴訟を起こしても賠償金はごくわずかにとどまるのが現状だ。
箕輪厚介氏の過去発言と「報道との摩擦」
箕輪氏はこれまでにも、週刊誌報道の倫理性に繰り返し言及してきた。2025年7月には、ニュースサイト「SmartFLASH」が報じた自身の不倫疑惑をめぐり、妻へのグラビア取材を試みた週刊誌に対して「週刊誌全員死ねよハイエナ」と強い言葉で批判したことがある。このときも「家族のために、これ以上騒がないでほしい」と訴えており、今回の宣言はその延長線上にある。
編集者という立場にある箕輪氏の発言は、単なる個人の感情表現ではない。報道する側とされる側、そして情報を消費する読者の三者が、どこで線を引くべきかという構造的な問題を突いている。
報道の自由と商業主義の狭間
SNSが発達した今、週刊誌やニュースサイトが発信する記事は瞬時に拡散される。以前なら限られた購読者に届くだけだった記事も、ポータルやSNSで「炎上」すれば、無関係な人々の生活や評判まで巻き込む。
本来、報道の自由は民主主義を支える根幹だ。しかし、その自由が「販売部数」や「PV至上主義」に飲み込まれた瞬間、報道の公益性は失われる。コメント欄では「誤報に対するペナルティが軽すぎる」「知る権利の濫用」といった声が多く見られた。
同時に、問題は供給側だけではない。ゴシップ記事が読まれる限り、その需要を支える読者側にも構造的な責任がある。人の失敗や弱点を娯楽として消費する傾向が強まれば、メディアの方向性も変わらない。箕輪氏の怒りは、そうした社会全体の“視線の暴力”への警鐘ともいえる。
SNS時代の「発信による防衛」
近年、芸能人や経営者が“スクープ報道”より先に自らSNSで釈明や反論を行うケースが増えている。情報の非対称性が崩れ、個人が自らの言葉で対抗できる時代になったことは、メディア環境の大きな転換点だ。
箕輪氏の「動画で闘う」という宣言も、法的措置ではなく発信で対抗する意思表示とみられる。
報道が本来の使命である「真実を伝える」から逸脱しないためには、発信者・受け手双方が情報の取扱いに責任を持つことが求められている。SNSの時代において、報道の自由と人権の尊重、その均衡をどこに置くか。箕輪氏の発言は、その問いを改めて突きつけている。



