
こっちのけんとがXで吐露した、躁鬱の混合状態による“再起動する心”。「焦点がブレる」「コンセント抜きたい夜」──成功の影で何が起きていたのか、本人の言葉から見えてくる。
混合状態が日常を侵食する瞬間
静かなはずの自宅が、ふいに敵地に変わる。
段ボールが積まれた部屋を歩き回るが、どこにも居場所がない。床に座っても、立ち上がっても、胸の奥がざわつく。
12月3日、こっちのけんとはXでこう訴えた(ENCOUNTによる)。
「自分がキモい感じする」「焦点がブレるし集中力がぶつ切り」「常に再起動しまくってる感じがゲボゲボ」
躁とうつが同時に現れる“混合状態”は、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものだと医療者は言う。
走り出したい衝動と、体重すぎて一歩すら動けない感覚が同居し、自分が自分でなくなる恐怖がつきまとう。
普段の生活に潜む小さな段差が、今は断崖に変わる。
「何かおかしいな?」という違和感が一度湧けば、次の違和感が追いかけてくる。いつ終わるとも知らないループだ。
「コンセント抜きたい夜」と向き合う
発信された比喩は、決して誇張ではない。
「コンセント抜いてしまいたいって感じ」
その一言には「このまま止めたい」という願いが潜む。気力は空回りし、目の前の光景が毒のように眩しく刺さる。
部屋に戻っても安堵できず、灯りが消えた瞬間には暗闇すら落ち着かない。
自分の電源ごと引き抜きたくなる夜。
それは、限界の向こう側に踏み込む手前の合図でもある。どこかで踏みとどまらなければならない。
彼はそれを知っている。
“生きるか、消えるか”
その境界線に、静かに腰を下ろしている。
「何もしないをする」──衝動との距離を取る戦略
こっちのけんとは、心が暴れ始めた時に「動かない」という逆説的な手段を選ぶ。
「思いついた事全部出来そうやけど何もしないをするのだ!」
躁状態では、アイデアと衝動が際限なく湧く。その勢いのまま手を伸ばせば、破滅的な選択へ転がるリスクは高まる。
一方で、鬱状態では体が鉛のようになり、動けない自分に落胆してしまう。
だから、敢えて「止まる」。課金ゲームを削除し、スマホから刺激を遠ざけ、とにかく眠りに賭ける。
休むことは弱さではない。暴走から自分を守るための“心のブレーキ”である。
熱狂と期待、その代償としての静けさ
SNS総再生150億回──
「はいよろこんで」が放った影響は計り知れない(ENCOUNTによる)。
ギリギリダンスは、テレビも街も賑わせた。紅白出演は、芸能者としての立ち位置を確固たるものにした。
しかし、本人の実感はこうだ。
「いい言葉だけど、裏で自分を犠牲にしているような言葉」
周囲は喜び、自分は疲弊する。拍手の音は甘いだけではない。求められる側にいるほど、心の燃料は激しく消費されていく。
観客が去った後の暗いステージ。その静けさの中で、初めて自分の呼吸が乱れていることに気づく。
“菅田家ブランド”が生む期待と孤独
兄・菅田将暉、弟・菅生新樹。
圧倒的な認知度と影響力を持つ家族の真ん中で、こっちのけんとは常に視線の中心に立たされてきた。
華々しい家族の成功は誇りだが、「比較」という影も落とす。注目は常に“兄弟全体”につきまとう。
期待されるほど、自分の歩幅を守ることが難しくなる。
「僕のことはいいから」幼い頃に抱えたその感覚は、光を浴びるようになっても消えないままだ。
見守るという選択肢
投稿欄には、寄り添う言葉が静かに積み重なった。
「無理しないで」「戻ってきたらまた会おう」「生きていて」
励ましすぎない距離感。それが今の彼にとって、最も優しい受け止め方なのだろう。
批判もゼロではない。それでも、空気は炎上から遠い。
止めるという選択が批判されない環境が、少しずつ広がり始めている。
「はいよろこんで」の次にある言葉は何か
期待に応え続ける社会で、誰もが抱えている「しんどさ」を彼の言葉は代弁している。
はいよろこんで──
その裏に、削れていった心はなかったか。
コンセントを抜かずに踏みとどまる夜。「何もしないをする」という選択が次の光を連れてくる。
焦らなくていい。夜は明ける。生きていてさえくれればいい。



