
SNS上で波紋を広げつつある、俳優・広瀬アリス氏による推しの結婚に関する持論の投稿。推しのプライベートに介入し、自身の理想を押し付けるファンを「厄神」と切り捨てたこの事案に対し、ネット上では賛否両論が渦巻き、アイドルを応援する層を中心に激しい議論が巻き起こっている。
突如の引用リポストと、“厄神”という強い言葉選び
22日、広瀬氏は自身の投稿に対し「推しの結婚が発表された。っていう顔。」と反応した一般ユーザーのリプライを引用リポストする形で、突如として持論を展開した。
「推しが結婚したら全力で涙流して喜ぶ」と前置きした上で、仕事面で輝く姿を全力で推すのが自分たちのスタンスであり、「その輝いている部分以外の時も全て自分の都合の良いように自分の気分が悪くならないように生きてくれだなんてただの厄神」と発言したのである。
さらに「自分の推しは皆何はともあれ幸せであれ」と結んだこの投稿。一見すると、推しの幸せを純粋に願う、達観したファンの鑑のような意見にも見える。事実、この広瀬氏のスタンスに賛同する声も少なくない。あるユーザーは「(略)死ぬほど共感してめちゃくちゃ頷きながら読みました。我々の前であんなに輝いてくださるのだからそれ以上何も求めてはいけない。我々からは見えない部分は干渉する権利も否定する権利もない」と投稿。勝手に想像して裏切られたと落胆するのではなく、ただ幸せを祈るべきだという肯定的な意見も一定の支持を集めている。
「推し」の定義を巡るねじれと、過去の交際報道という引力
しかし、この「厄神」という強い非難の言葉を用いた説明は、結果として多くのファンの心に火に油を注ぐこととなった。ここで見落としてはならないのが、議論の根底にある「推し」の定義の根本的なねじれである。
広瀬氏が想定する「推し」とは、俳優やスポーツ選手、アーティストなど、プライベートの恋愛が比較的自由な界隈も含めた広義の対象を指している可能性も考えられる。一方、今回激しく反発している層の多くは、「推し=アイドル」という疑似恋愛や特定のキャラクター性を前提とした、より狭義で熱狂的な認識を持っている傾向にある。
この前提のズレが議論を平行線にしているわけだが、ではなぜ広瀬氏の投稿に「アイドルファン」が強く引き寄せられ、これほどまでに噛み付いたのか。その最大の要因は、広瀬氏自身が過去に人気男性アイドルとの交際を報じられているという厳然たる事実にある。
つまり、批判する層からすれば、広瀬氏は単なる一俳優ではなく、自分たちの推しを「奪う側」「選ばれる側」になり得る立場の人間なのだ。その当事者が、ファンに対して「結婚を喜べ」「都合よく生きろと言うのは厄神だ」と説教のように語ること自体が、到底受け入れがたい“マウント”として強烈に響いてしまったのではないかと推察することができる。
SNS上では、「推し『側』と繋がることができてしまう女優さんに言われても…と思うのですが」「今まで現役アイドルや元アイドルとばかり付き合ってきた人が言う台詞ではないと思う。交際相手にファンがたくさんいるのがわかっていながら堂々マウントとってるようにしか見えない」「わたしがお前らの推しと結婚したら、涙流して喜べよ、というコト??」といった辛辣な批判が相次いだ。相手のファンの気持ちを想像せず、疫病神扱いする姿勢は、恋愛を商売の一部としている交際相手やそのファンへの配慮が著しく欠けているという指摘である。
アイドルファンが指摘する、綺麗事では片付かないファン心理
さらに、アイドル界隈特有の事情もこの反発を後押ししている。アイドル業界においては恋愛禁止の不文律が存在するケースが多く、疑似恋愛的なエンターテインメントとして夢を売っている側面が極めて強い。
あるユーザーが「例えばアイドルは『あなたorみんなの僕・私』というテイで成り立ってる仕事なのに、結婚して『誰かの男・女』になった途端、そのテイを全力で楽しんでたヲタクたちを異常者扱いする風潮、許せねぇよ。推しの結婚を喜べるのが真のヲタク、みたいな綺麗事やめろ」と発言したように、「100%喜べるのが真のファン」という押し付けは、エンタメの構造を無視した暴論に映ることもあるのだ。
また、推し活が人々の精神的なライフラインとなっている現代において、「仕事面で頑張れて輝けてる人はその余裕あるかもしれないけど、仕事もプライベートもキツくて、もがいてあがいてやっと生活してる人の唯一の推しに熱愛報道出たり結婚したら。やっぱり絶望と怒りに変わる人もいる」という切実な声も上がっている。
多くのファンは「見えない部分まですべて思い通りにしろ」と異常な束縛を求めているわけではない。「アイドルという立場で商売をしている以上、せめて見たくない、見ないようにと努力している部分(生々しいプライベート)が明るみに出ないでほしい」という、一種の防衛本能と切実な願いを抱いているに過ぎないのだ。
見えない多様性の許容と、可視化された深い溝
何より致命的なのは、この一連のやり取りの中に、多様な応援の形を認める余白が一切示されていない点である。推しの幸せを純粋に祝えるのも一つの形なら、ショックで落ち込んでしまうのもまた一つの形である。一般ユーザーの何気ないつぶやきをわざわざ引用し、特定の感情を「厄神」と断罪するような姿勢は、強い反発を招いても致し方ないと言える。
一方で、芸能人という立場に課せられた重圧や世間の心無い声に日々さらされているであろう広瀬氏の叫びから、節度を弁えたファンとしての在り方をもう一度考え直す必要があるのもまた事実であろう。
推し活という文化が真の意味で人々の支えとなるためには、多様な感情のあり方を否定しない環境が必要である。今回の広瀬氏の持論展開は、「推し」という言葉の解釈のズレを引き金とし、推す側と選ばれる側の決定的な認識の溝、そしてアイドルビジネスが内包する夢と現実の矛盾をより深く抉り出す結果となったと言えるだろう。



