
静まり返った会場に、低く抑えた声が落ちた。
「エプスタイン氏と時間を過ごしたことは、大きな過ちだった」
米マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツ氏が24日、自ら設立したビル&メリンダ・ゲイツ財団の職員らを前に謝罪した。相手は、少女らへの性的人身売買罪で起訴され、勾留中に死亡した資産家、ジェフリー・エプスタイン元被告である。
世界的慈善家として公衆衛生や教育支援を牽引してきた人物の口から語られた「過ち」という言葉。その重みは小さくなかった。
有罪後に始まった交遊
ゲイツ氏によれば、エプスタイン元被告と初めて会ったのは2011年。すでに同被告は2008年に未成年者への売春あっせんで有罪判決を受けていた。
それでも会い、意見を交わし、財団幹部を同席させた。
「違法なことは何もしていない。不法行為も見ていない」
そう強調しながらも、十分な身元確認をしなかった判断を認めた。「今分かっていることを踏まえれば、事態は当時の想定よりはるかに深刻だった」とも語ったという。
違法性の有無と、倫理的妥当性。その間に横たわる溝が、今回の問題をより複雑にしている。
ロシア人女性2人との不倫を認める
さらにゲイツ氏は、ロシア人女性2人との不倫関係を認めた。1人はブリッジ競技を通じて知り合った選手、もう1人はビジネス活動で出会った原子物理学者だという。
ただし、いずれもエプスタイン元被告の犯罪とは無関係であり、自身は違法行為に関与していないと明言した。
公開された資料群に著名人の名前が含まれていること自体は、直ちに犯罪を意味するものではない。それでも、社会の目は厳しい。なぜ距離を取れなかったのか。その一点に疑問は集約していく。
メリンダ氏が示した“距離”
この問題をより象徴的にするのが、元妻の存在だ。
メリンダ・フレンチ・ゲイツ氏は米メディアのインタビューで、「答えるべき疑問がある」と語り、資料開示が「非常につらい記憶を呼び起こした」と述べた。
2013年にはすでに、エプスタイン元被告との関係に懸念を示していたという。
それでも交遊は続いた。
家庭内で示された警告と、外で続いた接触。この落差こそが、今回の問題の核心にある。
単なる交友関係ではない。最も近い存在からの違和感を受け取りながらも関係を断たなかったという事実が、「判断」の質を問う。
倫理とは、法に触れない範囲でどこまで自制できるかという問題でもある。巨大な影響力を持つ人物であればなおさらだ。
テクノロジー業界と倫理の構造問題
今回の騒動は個人の過去にとどまらない。
シリコンバレー型エリートは、若くして莫大な富を築き、国家規模の影響力を持つ。企業経営者でありながら、慈善家、政策提言者、国際会議の主役として振る舞う。
ビル&メリンダ・ゲイツ財団は世界最大級の民間財団の一つであり、感染症対策や教育支援に巨額資金を投じてきた。その影響力は一国の政策にも及ぶ。
だが、権力が集中するほど、倫理的な自律と透明性は強く求められる。
成功体験を重ねたエリートのネットワークは閉じやすい。巨額の資産、国際会議、プライベートジェット。そこでは社会的地位が信頼の代替物となり、警戒心が鈍る危険もある。
今回問われているのは違法性ではない。
影響力を持つ者が、どこまで厳格な基準で自らを律するのかという問いだ。
AIサミット講演をキャンセル
インド・ニューデリーで開催中のAI関連国際会議で予定されていた基調講演は取りやめとなった。財団は「主要議題に集中するため」と説明している。
だが象徴的なのは、AIの未来を語る壇上に立つはずだった人物が、その直前に過去の交遊で説明を迫られたという事実である。
技術の進歩と倫理の成熟。その歩幅が揃わないとき、信頼は揺らぐ。
静かな謝罪のあとにも、問いはなお残り続けている。



