歴史に名を残す経営者たちは、どのような理念に基づき行動していたのだろうか?今回はその疑問に当時の状況を交えて縦横に答えてくれるHistlink(ヒストリンク)企画講座「経営・人生にいかす先人の生きざま」を紹介する。
歴史マッチングサービスHistlink(斉藤太一代表)は著名な歴史研究者や偉人に関係する方との対談などの企画を展開し、これまでも東條英機の曽孫や河合敦先生(NHK「歴史探偵」出演)をゲストに講演会を行ってきた。また普段なかなか繋がる機会のない著名歴史研究者などと企業・団体とのマッチングも積極的に行っており、教養習得などの一環としての歴史講座などのイベントサポートも活発に行っている。
今回取り上げるのは、2022年秋からスタートした近代経済人を取り上げるシリーズ。この講座では「歴史上の経営者の行動から経営原理などの普遍的な在り方を学ぶ」をテーマに毎回様々な人物を取り上げている。
今回はその第1回「二宮尊徳」の模様をレポートする。
忘れられた二宮尊徳の「科学的視線」
薪を背負って本を読む像で有名な人物、二宮尊徳。戦前の尋常小学校で使用されていた国定教科書では明治天皇に次ぐ登場回数であったとも言われ、明治から戦前にかけて多くの日本人の記憶に留められた人物だが、果たして彼が何をやった人だった?と問われてハッキリと答えられる人はどのくらいいるだろうか?
「彼の功績は明治以後の富国強兵政策の中でその思想部分のみが拡大普及されてしまいました。結果戦後になって戦前の記憶と共に忘れ去られてしまった。しかし彼の本当の功績は当時としては珍しい科学的視線を持った農村経営にあります。物事をありのままに捉えそれを改善していく。彼の視線は現代の企業経営にも通じるところがある」と話すのは今回講師を務められた、歴史研究を核とした講座・デザイン・ガイドなどを事業とする軽野造船所を運営する岩﨑敦史氏。
岩﨑氏は二宮の真価について「勤勉な勤労者といった道徳的な規範ではなく、彼が成人してから編み出した客観的・合理的・定量的でかつ組織的な社会再生運動『報徳仕法』にある」と続ける。
周囲から浮いた存在だった「二宮金治郎」
二宮金治郎(二宮自身の署名としては「金次郎」ではなくこちらの方が多い)、後の二宮尊徳は1787年に相模国栢山村(現在の神奈川県小田原市)で生まれている。当時日本は江戸時代の後期に差し掛かっていた時代。経済成長が鈍化し人口増加は停滞・多くの人が借金に苦に喘ぎ、農民が現金収入を求めて都市部に流入した結果農村が荒廃するという、現代にも共通する社会問題が多い時代だった。
二宮は裕福な農家で生まれた。しかし当時の小田原付近は二宮誕生から80年前、1707年の富士山宝永噴火によって大量の火山灰が降り注いだ地域で、その影響が影響し、なおも貧困に苦しんでいる地域だった。更に二宮4歳の時に巨大な台風が襲来、酒匂川が氾濫して田畑を押し流すという不幸にも襲われていた。
これらの災害の中、二宮の父は惜しげもなく貧しい人々に自らの土地を分け与えてしまったので、家は一転して貧乏に。その父が48歳、そして母も36歳という若さでこの世を去ると、一家は離散。二宮も伯父の家へと引き取られることになった。
二宮はこの伯父の家で農作業に勤しむことになるが、その合間によく本を読んで勉強していたことから、現代も多くの人が知る「薪を背負って本を読む子供」のイメージが語り継がれることになる。しかし当時の農民は本を読む時間があれば農作業をするのが常識で、二宮の伯父も「百姓に学問は必要ない」と考えて勉強を勧めてはいなかった。当時の二宮少年は周囲からは浮いた存在だったのだ。
農民離れした経営で家を再興
二宮少年は18歳で伯父の家を出、荒れ家になっていた生家に戻る。彼はまず道に捨てられていた米苗を拾い集めて田で育て始めた。その結果秋には1俵ほどの米を得、さらにその米を植えることを繰り返し、田畑の復旧に目処をつける。すると彼は軌道に乗り始めた稲作を雇った小作人に任せて、自らは薪を採って小田原城下で売る商売を始めた。「薪は生活必需品であり常に求められている商品。そして換金率が良い」。そこに目を付けた二宮は薪販売で得た収益で山を購入、さらに薪を生産・販売することを続け僅か1年で買った山の額の3倍の収入を得たという。
人を雇って農業を任せ、自分は現金を得られる仕事に時間をかけるという、当時の農民には考えもつかない行動をとる二宮。彼はその後収穫できた米から年貢分を納め、それでも余るようになると、次は苦しい生活をしている人々に米を分け与えるようになった。
「こうして分け与えた米は、豊作の年には与えた分より多くなって二宮の手元に返ってきました。そうしていく中で彼は米を死蔵しておくのではなく、循環させることで多くの人が利益を得られると気づきます。それは幼い時に田畑を流されながらも人々に手を差し伸べていた父の姿から学んだことだったのかもしれません」と岩﨑氏は語る。
こうして逞しい青年に成長した二宮は、24歳の時に父の手放した全ての土地を買い戻し、二宮家の再興を果たした。
経営再建コンサルタントとして数々の実績を重ねる
その後二宮は村の世話役として、村の米を集約して小田原城下の米屋に売却する交渉を行ったり、5人を一組として相互に連帯責任を負わせることによって低金利の融資を受け取れる「五常講」制度を実行するなど様々な施策を進めていった。これら彼の実績は噂を呼び、それを聞いた小田原藩家老服部家から家計の再建を頼まれることになる。
破産状態にあった服部家の家政を任された二宮は、家計を回復させるためには収入の6割の支出で運営しなければならないと考え、食事は一汁一菜、着物は木綿という倹約策を進める。また同時に家中では仕事量を定めて規定以上の成果を上げた者に褒美を与えることにした。
例えば煤まみれになった釜を掃除し、出た煤を集めて持ってきた者に褒美を与えるといったように。この指示により使用人たちが先を争って煤を集めてきたのだが、釜が綺麗になることで熱伝導率が良くなり薪の消費量が減るという成果も上がり、一石二鳥になった。これら二宮の差配の結果、服部家の借金は僅か5年で完済され、二宮は藩主から表彰されることになる。
二宮はその後、小田原藩主から藩の経営改善を頼まれてその手腕を振るい始める。そんな彼の前に立ちはだかった難題が、下野国桜町(現在の栃木県真岡市)の再建事業だった。
「心田開発」「一円観」……困難の中でたどり着いた経営理念
それまで何度も失敗してきた桜町の再建事業を引き受けた二宮は、現地に向けて旅立った。彼が事業達成のために要求した期間は10年間。
当時の桜町は仕事を求めた農民が江戸へ流出し、耕作放棄地が増える問題を抱えていた。現地の様子を見た二宮は、まず全ての家屋を訪ねて個々の収穫量・居住人数さらに病人の数まで調べ上げる。また家の間取りや障子の枚数も記録した。軒の長さを調べたのは日光が入る時間を調べて障子を張替えるまでの期間を知るためだった。こうして様々なデータを収集した二宮は再建に着手、土地の開拓や他地域からの労働者受け入れ策を積極的に推進していった。
また彼はこの村で腕を揮う中で自身の経営理念を体系化していった。
例えば作業を工夫している者を表彰したい時、二宮は村人同士の投票で選出した。二宮自身が選んでは他の村人から批判を招くことになるし、二宮の目の前でだけ頑張る者も出てきてしまう。それを防ぐ公平なやり方を目指した。彼はこうした人の心・生活に密着した方針について「生活が苦しい者に観念的な道徳を説いても受け入れられる余地はない。生活に即し生活を改善する形の中で道徳に導くべき」と述べ、それを「心田開発」と命名している。
またある時、彼の推し進める施策が村民や上司である小田原藩士から反発を受けることがあった。二宮は周囲からの反発を受け止める中で、相反する者同士が1つの円の中で溶け合ってまとまる「一円観」の悟りを見つけ出すに至る。
……これら多くの苦難を経て、二宮は見事に桜町を再建する。桜町は藩主と約束した10年で収益を2倍に増やし、更に二宮の来村から20年を待たずに3倍の収益を上げるまでになった。
幾多の経営再建から生まれた「報徳仕法」
その後に襲ってきた天保の大飢饉でも、調査で得た知見を元に二宮が備蓄を進めていた桜町では餓死者が出なかった。また他にも烏山藩や下館藩といった各藩の再建で業績を重ねた二宮は遂に幕臣へと推挙され、幕政に参加することになった。
幕府から日光89村の復興を命じられた二宮はいつものようにまず現地に赴いて調査をしたいと願い出るが、幕府は行く前にまず計画を提出しろと命令を下す。これを聞いた二宮は、ならば自分が行かなくてもどんな場所でも自分が行った時と同じような再建ができるような教本があればよいと考え、その作成に取り掛かり始めた。
彼は江戸幕府成立より以前の太閤検地にまでさかのぼって日本全国の人口変動、災害、生産性を徹底的に調べ上げた。そして得られた膨大なデータから以後180年先に至るまでの経営計画を練り上げた。これが全84巻にもなる「富国方法書」で、この書物で語られる経営理念が「報徳仕法」と呼ばれるものだった。
「報徳」とは論語に語られる言葉だが、「報徳仕法」中で語られる「徳」とは「それぞれの長所や潜在的な力。一見すると禍に思えることでも捉え方では『徳』になる」ものとされ、徳を掘り起こして連繋させ、生産性を高めて循環性を効率化し、生活・生業の創造性と安定性を追求することこそが「報徳仕法」だと二宮は伝える。
報徳仕法は実践行動として「至誠(道心に沿った心の状態)」「勤労(心を『至誠』の状態にして生活の選択を行うこと)」「分度(『分』に応じた生活をする)」「推譲(余剰分を拡大再生産に充てること)」の4つを重視する。
講師の岩﨑氏は言う。「彼の『報徳仕法』はそれまでの地縁・血縁で結ばれた共同体経済から脱却し、近代的経済へと進展させることを目指しています。個人を中心にした私経済の確立こそが根本にある。彼は個人が共同体に寄らずに自立していくことに目指していたのです」。
受け継がれている二宮の理念
……二宮は67歳で日光に赴き30年計画で復興を図るが、道半ばの70歳で世を去る。
しかし彼の理念はその弟子たちや「報徳社」の活動によって受け継がれていった。例えば二宮の弟子の中に豊田伊吉という人物がいる。彼は実生活でも報徳仕法を実践し続け、その想いを子佐吉へと伝えた。佐吉は発明家として名を成し、後に豊田式自動織機を発明する。現在のトヨタ自動車の前身である。世界的に有名なトヨタの「カイゼン」方式の中にも報徳仕法が根付いているのだ。
「『報徳仕法』は決して忍耐を強要するものではありませんし、近代思想的平等を否定するものでもありません。身分を問わず身近な家政から地域的な経済を救済し、さらにそこから自らの力で立ち上がる力を身に着けるための仕法でした。それは経済と道徳を連繋・一元化させることであり、『攻めの富国論』として日本の近代化に大きな影響を与えたのです」と今回の講座をまとめた岩﨑氏。彼に今後の講座の展開について伺った。
「歴史に名を残し、日本、世界の経済に影響を与えた人たちを分かりやすく紹介する企画です。二宮金治郎に続いて渋沢栄一、岩﨑弥太郎などを取り上げており、今後豊田喜一郎などもテーマに扱う予定です。経営の要や原理原則、危機管理を先人のリアルな生き様から学べることもあると思います。お気軽に、覗いてみてください」。