
シンガー・ソングライターの宇多田ヒカル(42)が5日、X(旧ツイッター)を更新し、クマの人身被害報道と自身の過去発言を結びつけた一部週刊誌の記事構成について「本人の私でも騙されそうになった」と苦言を呈した。ネット上では「まるでフェイクニュースだ」「印象操作が悪質」との声も上がっている。芸能人の発言が意図的に切り取られ、文脈をねじ曲げられる報道手法は、いま改めて見直しが求められている。
宇多田ヒカル、Xで異例の投稿「本人の私でも騙されそうになった」
宇多田は5日、自身の公式Xを通じて次のように投稿した。
「今日本で話題のクマ報道に乗っかって、私の昔の発言を引用してる週刊誌の記事が出て…見出しや内容読んだ人は、私が『クマが可哀想で泣いてる』『ハンターに天罰が下ればいい』なんて言ってると思って批判的な意見が届いた」。
しかし記事を確認すると、「SNS上のランダムな人たちの過激な発言を、そうとは明記せずに私の写真の下に掲載し、そのまま私の話や本当の引用が始まる構成」だったという。
宇多田は「そんな手があるんかい。本人の私でも騙されそうになったわ」と率直に驚きを示し、「こういう世間の憤りを関係ない有名人に向けようとするのやめてほしい」と訴えた。
「ぼくはくま」と“クマ報道” こじつけの構成が生む誤解
問題の記事では、宇多田が2006年にリリースした楽曲「ぼくはくま」を軸に、近年多発するクマ被害や駆除をめぐる世論を紹介。その中で、匿名SNSユーザーの「クマがかわいそう」「ハンターはひどい」といった声を冒頭に並べ、その直後に宇多田の写真と過去発言を掲載していた。
一見すると、宇多田自身が“クマ駆除反対”の立場を取っているかのような構成である。だが実際には、宇多田がそのような主張をした記録はなく、匿名投稿と本人の言葉の区別が明確に示されていなかった。
これにより、一部読者は「宇多田が過激な発言をした」と誤解し、SNS上で批判を寄せた。
構成の巧妙さゆえに、宇多田自身も「まさか自分がそんなこと言ったのかと一瞬思った」と振り返っている。
印象操作の手口 “写真と文”の配置が作る虚像
今回の件で露呈したのは、報道上の「構成トリック」だ。
人間の視線はまず画像や写真に引き寄せられ、その下にあるテキストを「本人の発言」として無意識に結びつけやすい。
その心理を利用して、無関係な意見を有名人の写真の隣に配置すれば、あたかも本人がそれを述べたかのような印象を与える。
週刊誌やネットメディアの中には、明確な虚偽を書かずとも「印象」で事実をねじ曲げる構成を用いる例が増えている。
宇多田が「本人でも騙されそう」と語ったのは、まさにその“視覚的印象操作”の危うさを体感したからにほかならない。
“怒りの矛先”がずれる 便乗報道の危険性
SNS時代の炎上構造では、「社会問題×有名人」の組み合わせが最も注目を集める。
クマの被害や駆除をめぐる議論は世論の関心が高く、そこに「ぼくはくま」というキーワードを持つ宇多田を絡めることで、報道側はアクセスを得やすい。
しかし、その手法が行き過ぎれば、無関係な芸能人が「怒りの矛先」にされる。
実際、宇多田に対しては記事公開後、一部ユーザーから「人命より動物か」「感情的すぎる」といった批判的リプライが寄せられた。
宇多田は直接反論せず、冷静に構成上の問題点を指摘する形で抗議したが、この種の誤認は本人のイメージを容易に傷つける。
有名人にとって報道の“文脈誤用”は、名誉毀損に近いダメージを与えることすらある。
メディアと読者双方に問われる責任
今回の問題は、報道機関の倫理と読者のリテラシーの双方に警鐘を鳴らした。
報道側は「誰が」「いつ」「どんな文脈で」発言したのかを正確に示す義務がある。匿名意見と本人発言を混在させる構成は、事実上の誤報と変わらない。
一方で、読者も「見出しや写真の近くに書かれている=本人の発言」と安易に信じない姿勢が求められる。
宇多田は「情報を鵜呑みにしているのは少数派だと信じている」と語ったが、少数でも拡散すれば社会的影響は大きい。
彼女の迅速な訂正投稿は、誤情報社会における“防御の手本”として大きな意義を持つ。
まとめ
社会問題に芸能人の名前を絡める“便乗報道”は、注目を集める手法としてメディアが多用してきた。しかし、そこに倫理の線引きを欠けば、発言の文脈は歪み、本人の意図とは無関係な“虚像”が生まれる。
宇多田ヒカルが「本人の私でも騙されそうになった」と告白した今回の一件は、印象操作がどれほど巧妙に、そして日常的に行われているかを示す象徴的な事例だ。
報道の自由は重要だが、その根底にあるべきは「誤解を生まない構成」と「正確な説明責任」である。
そして、読者一人ひとりが“読む力”を高めなければ、真実は簡単に塗り替えられてしまう。
今こそ、発信者と受信者の双方が、自らの情報態度を問い直すときだ。



