
人気料理研究家でYouTuberのリュウジ氏が、10月5日までに自身のX(旧Twitter)を更新し、「飲みの席で“片親パン”と言われた」と明かした。母子家庭で育った自身の立場から、軽口の裏に潜む無神経さを指摘した投稿は、瞬く間に拡散。SNS上では数千件のコメントが寄せられ、ネットスラング「片親パン」に象徴される“言葉の暴力”が改めて議論を呼んでいる。
「母親の気持ち考えたことあんのか」──飲み会での一言が刺したもの
「飲みの席で子どもの頃どんなの食べてた?みたいな話になって、“砂糖かかったでけえパンとチョコ入った棒のパン旨いよねー!!”って言ったら、『あ、片親パンね』って言われてさ……」
そう記したのは、チャンネル登録者数400万人を超える人気料理研究家リュウジ氏。彼は投稿の中で、淡々と当時の心情を綴っている。
「まあ確かに俺片親なんだけど、お前女手一つで育てた俺の母親の気持ち考えたことあんのかってなった」と呆れをにじませた一文には、冗談として片付けられない現実の痛みが滲む。
彼の投稿は瞬く間に拡散し、「そんな言葉初めて聞いた」「パンと親を結びつける意味がわからない」といった批判が殺到。SNS上では“片親パン”という言葉の存在自体に驚く声が相次いだ。
“片親パン”とは何か──自虐から差別へと変質したネットスラング
「片親パン」とは、SNS上で2021年ごろから流行し始めたネットスラングである。意味は、「ひとり親家庭の子どもが食べていそうな、安価で量が多い菓子パン」──。袋入りのスティックパンや砂糖がまぶされた大判パンなどを指すことが多い。
当初は、ひとり親家庭出身のユーザーが“自虐的に”用いる言葉として広まった。自分の家庭環境を笑いに変え、共感を得ようとする意図があったとされる。だがその後、第三者が“揶揄”の意味で用いるようになり、差別的なニュアンスが強まった。
あるネットメディアライターはこう指摘する。
「貧困や家庭環境を“ネタ”として消費する風潮は、SNS文化に根深く存在します。片親パンも最初は“共感の合言葉”でしたが、他者が使うようになると一気に暴力的なスラングに変わってしまった」
SNSの拡散力と無自覚な笑いが、当事者を傷つける言葉に変えていく。リュウジ氏の投稿は、その構造をまざまざと浮かび上がらせた。
滝沢ガレソも取り上げ拡散──Z世代スラングの暗い系譜
この話題がさらに広がったきっかけのひとつが、暴露系インフルエンサー・滝沢ガレソ氏(@tkzwgrs)の投稿だった。滝沢氏は自身のXで“片親パン”を取り上げるとともに、Z世代発の差別的スラングとして「アフガキ(アフタースクールガキ)」「和室界隈」などを列挙し、「言葉の軽さの裏にある無神経さ」を批判した。
これらのスラングは、いずれも若年層の一部でミーム的に使われる“内輪ノリ”から生まれている。「和室界隈」は貧困家庭を、「アフガキ」は放課後施設を利用する子どもを揶揄する言葉だ。
滝沢氏の投稿をきっかけに、ネット上では「Z世代の言葉センス」と称される風潮自体への懸念も噴出。「笑いのセンス」や「ネット文化」として軽く扱われがちな言葉が、実際には誰かの生活や記憶を踏みにじっているという指摘が相次いだ。
SNSにあふれる共感と怒りの声
リュウジ氏の投稿には、数千件を超えるコメントが寄せられた。多くはネーミング自体への嫌悪と、家庭にまつわる個人的な思い出を重ね合わせた声だった。
《片親パンって何!? 初めて聞いたけど、言い方酷い…パンと親関係ないやん》
《パン会社にも、シングルで育ててる親にも失礼。これ以上醜悪な言葉ない》
《ママが忙しい中で買ってきてくれたパン。あの甘さが当時の愛情だった》
《全方面に失礼だから片親パンとかいう呼び方嫌い》
中には「昔そのパンが楽しみだった」「食卓に置いてあったパンの記憶が蘇った」といった感傷的な声も多く、スラングが奪う“生活の尊厳”を感じさせた。
「笑い」は誰のためにあるのか──言葉と社会の断層
SNSでは、軽い冗談が一瞬で拡散し、誰かの痛みになる。その構図に多くの人が気づきながらも、止められない。「片親パン」という言葉の背後には、ネット社会特有の“共感と消費の循環”がある。
自虐から始まった言葉が、やがて第三者の“ネタ”になる。この過程で、当事者の声や感情は置き去りにされていく。言葉の軽さが無自覚な暴力へと変わる――それがSNS時代の最大の落とし穴だ。
社会学者の一人はこう語る。
「SNSは“匿名の公共空間”です。そこでは、笑いも同情も、誰かの生の上に成り立っている。だからこそ“言葉の責任”は以前より重くなっているんです」
“母の味”をめぐる怒りの行方
リュウジ氏の怒りは、単なる被害感情ではない。母親が一人で懸命に働き、自分に買い与えてくれた菓子パン。その思い出を「片親パン」と呼ばれることで踏みにじられた痛みだ。
それは、彼の料理動画で一貫して描かれる“庶民の味”や“家の温かさ”とも深く重なる。
リュウジ氏はその後も投稿で「母親を馬鹿にするな」と繰り返し訴えた。多くのフォロワーが共感を寄せ、「自分の親を誇りに思う」というメッセージが拡散された。
SNSの片隅に、確かな連帯が生まれていた。言葉が人を傷つけるだけでなく、共感を通じて癒す力もあることを、今回の一件は静かに示している。
「片親パン」という一言が、ここまで大きな反響を呼んだのは、それが単なるスラングの域を超えて、「生活」「家族」「記憶」に踏み込む言葉だったからだ。
SNSにおける“軽口”は、発信者にとっては笑いでも、受け手にとっては侮辱になり得る。笑いのセンスを競うような文化の中で、誰かの人生を切り取る言葉が無責任に消費されていく。
リュウジ氏の怒りは、そうした現代社会の「言葉の鈍感さ」に対する一つの抵抗でもある。
パンの甘さに宿る母の記憶を守るように、彼は静かに、だが確かに訴えた――「その一言の重さを、考えてほしい」と。