
2月23日、メキシコ全土が恐怖と混乱の渦に飲み込まれた。アメリカ政府から最大1500万ドル(約22億円)もの莫大な懸賞金がかけられ、「世界で最も危険な男」と恐れられてきた巨大麻薬組織「ハリスコ新世代カルテル(CJNG)」の最高幹部、ネメシオ・オセゲラ・セルバンテス容疑者(59)、通称「エル・メンチョ」が、ついにメキシコ軍の急襲作戦により死亡したのだ。
作戦が決行されたのは22日、メキシコ西部ハリスコ州の山間に位置する風光明媚な町、タパルパでのことだった。米国とメキシコの両政府機関で構成される極秘の合同タスクフォースが、米側からの補足情報をもとにエル・メンチョの潜伏先を完全に包囲。政府軍とCJNGの武装メンバーとの間で壮絶な銃撃戦が勃発し、エル・メンチョは護衛のメンバー3人とともに現場でその命を散らした。
しかし、絶対的指導者の死は、決して平和の訪れを意味しなかった。トップを殺害された組織のメンバーによる苛烈な報復、いわゆる「ナルコ・ブロック(麻薬封鎖)」が即座に始まったのだ。ハリスコ州や世界的リゾート地であるプエルト・バヤルタ市など複数の地域で、重武装したカルテル・メンバーらがバスやトラックを強奪して次々と放火。
炎上する車両で主要道路を封鎖し、商店に火を放ち、治安部隊と激しい市街戦を繰り広げている。メキシコは今、出口の見えない悪夢の夜を迎えている。
貧困アボカド農家から不法移民へ……若き日の転落と「警察官」という仮面
世界を震え上がらせ、最近では、ゾンビドラッグとして有名なフェンタニルなどにも関わっていると言われる最凶カルテルのボスは、いかにして誕生したのか。その生い立ちは、メキシコ社会の深い闇を体現している。
エル・メンチョこと、本名「ネメシオ・オセゲラ・セルバンテス」は1966年、ミチョアカン州の田舎町アギリヤにある貧しいアボカド農家に生まれた。小学5年生で学校を中退し、14歳になる頃には農場の警備に駆り出される日々を送っていた彼は、より良い生活を求めて10代で家族とともにアメリカ・カリフォルニア州へと不法移住する。
しかし、そこで待っていたのはアメリカンドリームではなく、麻薬密売という裏社会への入り口だった。1980年代後半、彼はサンフランシスコのベイエリアで覚せい剤やヘロインの密売に手を染め、幾度となく逮捕と強制送還を繰り返した。
ある時のヘロイン取引では、警察のおとり捜査を見抜く鋭い洞察力を見せたものの、最終的には逮捕されている。この際、すでに重罪を抱えていた兄を終身刑から救うため、自ら有罪を被ってテキサス州の刑務所で数年間服役するという、身内への異常なまでの執着と自己犠牲を見せている。
30歳でメキシコに強制送還されたエル・メンチョは、ここで信じがたい行動に出る。なんとハリスコ州の地方自治体で警察官として就職したのだ。しかし、法の番人としての生活は長くは続かず、すぐに警察組織を去ると、シナロア・カルテル傘下の「ミレニオ・カルテル」へと身を投じた。この「元警官」という経歴で培った警察内部の手口や人脈が、後に彼を無慈悲な麻薬王へと押し上げる原動力となったことは想像に難くない。
凄惨なる「雄鶏の王」の支配と、寿司店まで操る底なしのマネーロンダリング
ミレニオ・カルテルのリーダーの妹であるロザリンダと結婚して組織内での地位を固めた彼は、やがて自らの組織「ハリスコ新世代カルテル」を創設し、メキシコ裏社会を瞬く間に席巻していく。闘鶏を愛したことから「雄鶏の王」とも呼ばれた彼の支配手法は、冷酷そのものだった。
ライバル組織を容赦なく壊滅させ、敵対者の処刑映像をSNSで拡散して恐怖を植え付ける。元軍人を傭兵として雇い入れ、ロケットランチャーで軍のヘリコプターを撃墜するほどの圧倒的な火力を誇った。
さらに、彼のビジネスセンスは麻薬密売にとどまらなかった。欧米向けの合成麻薬の製造ルートを確立する一方で、故郷のアボカド農業や建設業を暴力で乗っ取り、地元の中小企業からみかじめ料を搾り取るなど、あらゆる産業を食い物にして巨大な資金源を築き上げたのだ。
寿司店からテキーラまで…マネロンを支えた「血塗られた家族」
その莫大な裏金は、彼自身の家族によってマネーロンダリング(資金洗浄)されていた。妻のロザリンダは組織の財務最高責任者として暗躍し、長男の「エル・メンシート」ことルベンは副リーダーとして組織を牽引。さらに驚くべきは長女ジェシカの存在だ。「ラ・ネグラ」の異名を持つ彼女は、アメリカとメキシコの二重国籍を利用し、高級寿司店やテキーラブランド、広告代理店などを隠れ蓑にして組織の黒い金を洗浄していた。
しかし、彼の死を待たずして、一族はすでにアメリカとメキシコの司法の手によって次々と追い詰められていた。
- 妻 ロザリンダ(財務責任者): カルテルの「金庫番」として資金洗浄を指揮。2021年にメキシコ軍により逮捕され有罪判決を受けた。
- 長男 ルベン(通称:エル・メンシート): 組織の「ナンバー2」。2017年に逮捕され、2020年に米国へ身柄を引き渡された。
- 長女 ジェシカ(通称:ラ・ネグラ): 米国とメキシコの二重国籍を持つ彼女は、2020年2月、弟ルベンの裁判の傍聴のためにワシントンD.C.を訪れたところを電撃逮捕された。寿司レストラン(Mizu Sushi Lounge)やテキーラブランド(Tequila Onze Black)、広告代理店などを隠れ蓑にしたカルテルのマネーロンダリングへの関与を認め、2021年に米国で実刑判決を受けている。
巨大な山中病院に隠れ潜んだ最期と、メキシコに降りかかる「血の雨」の予兆
アメリカのトランプ政権からはテロ組織として名指しされ、国内外の治安当局から猛追を受けていたエル・メンチョ。晩年の彼は深刻な腎臓病を患っていたとされ、暗殺や逮捕を逃れるためにハリスコ州の険しい山奥の村に自費で私立病院を建設し、隠れ家を転々としながら治療を受けていたという。
かつてカリフォルニアの街角でヘロインを売り捌いていた貧しい少年は、巨万の富と引き換えに、最期は病魔と追っ手の恐怖に怯える日々を送っていたのだ。
そして今、絶対的なカリスマを失ったハリスコ新世代カルテルという巨大な暴力装置は、コントロールを失ったまま暴走を始めている。後継者の座を巡る凄惨な内部抗争が勃発するのか、それとも宿敵シナロア・カルテルがこの隙を突いて血みどろの領土戦争を仕掛けてくるのか。
確かなことはただ一つ。メキシコの大地には今夜も、そしてこれからも、果てしない血の雨が降り注ぐということだ。



