
2025年3月に発生した愛媛県松山市の聖カタリナ学園高校刃物事件が、発生から約1年を経た2026年2月、X上で再び大規模な議論を呼んでいる。発端は過去動画の再拡散だった。しかし再燃の本質は単なる“掘り返し”ではない。もし学校がいじめ問題に真正面から向き合っていれば、この事件は防げたのではないか――。再炎上の背景と、学校対応の検証、そして日本社会が直視すべき構造的課題を整理する。
事件の概要 2025年3月11日午後1時35分、いじめ構造が噴き出した瞬間
事件が起きたのは2025年3月11日午後1時35分から40分頃。場所は愛媛県松山市藤原町の聖カタリナ学園高校校舎1階玄関付近だった。
当時1年生の男子生徒(16歳)が、同じクラスの男子生徒(16歳)の首の後ろを文化包丁で切りつけた。被害生徒は数針を縫う傷を負い、全治約1週間。命に別条はなかった。止めに入った生徒2人も軽傷を負った。
加害生徒は学校外から包丁を持ち込み、現行犯逮捕。殺人未遂容疑で送検され、その後2025年4月24日、松山家庭裁判所で少年院送致の保護処分が決定した。
一部報道、特にテレビ朝日「スーパーJチャンネル」によると、加害生徒は「被害生徒からいじめを受けていた」と供述していたとされる。ただし警察の公式発表は「生徒同士のもめごと」とするにとどまった。
ここで問われるのは動機の真偽ではない。問題は、なぜ刃物を持ち込むまで追い詰められたのかという一点である。
学校の説明は十分だったのか “推測の段階”という壁
事件翌日の3月12日夜、学校側は保護者説明会を実施した。
そこで上がったのは当然の疑問だった。「いじめはなかったのか」「持ち物検査はしていたのか」。だが副校長は「人間関係の問題は推測の段階」と説明し、詳細は「警察の捜査中」として公表を控えた。
慎重姿勢と言えば聞こえはいい。しかし、被害やトラブルの兆候をどこまで把握していたのか、未然防止の仕組みは機能していたのかという核心部分は、最後まで曖昧なままだった。
さらに同校は2022年、野球部内での集団暴行事案が第三者委員会により「暴力を当然視する空気」と認定された過去がある。学校文化としての問題はなかったのか。偶発的事件と切り分けられるのか。
いじめの有無を「推測」と表現する姿勢は、被害を訴える側からすれば「存在を認めない」と同義に映る。もし相談があったとして、それはどの段階で、どう扱われていたのか。そこが明らかにならない限り、「防げたのではないか」という疑問は消えない。
なぜ1年後に再炎上したのか SNSが掘り起こした記憶
2026年2月、TikTokやXで事件当時の映像が再投稿された。返り血を浴びた加害生徒が連行される映像、報道クリップの切り抜き。そこに「いじめ復讐」という文脈が付け加えられ、一気に拡散した。
背景には、直近で拡散された別の高校生いじめ動画や刃物トラブルへの怒りが蓄積していたことがある。学校が動かない、相談しても変わらないという不信感が、過去事件と結びついた。
X上では次のような声が交錯した。
「追い詰められた子を誰も守らなかった」
「どんな理由でも刃物は絶対にダメ」
「学校の責任を検証しろ」
「復讐を肯定する空気は危険」
擁護と非難、感情と理性が激しくぶつかり合った。だが共通しているのは、「いじめが放置される社会」への怒りである。
これは単なる再炎上ではない。未解決感が残っていたからこそ、再び燃え上がったのだ。
いじめ構造の限界 被害者が加害者に転じる瞬間
被害者が加害者に転じる構図は、これまでも繰り返されてきた。
いじめが継続し、孤立し、相談が機能しないとき、心理的追い詰めは極限に達する。もちろん暴力は正当化できない。しかし、暴力が生まれる土壌を放置した責任は誰が負うのか。
学校は「把握していなかった」と言う。だが、把握できない仕組み自体が問題ではないのか。匿名アンケート、外部相談窓口、定期面談、持ち物チェック、校内監視体制。形式だけ整えても、教師が本気で介入しなければ意味はない。
「事なかれ主義」「評判優先」「内部処理」。これらが重なれば、子どもは声を失う。
もし早い段階で介入があれば。もし信頼できる大人がいたなら。刃物を手にする前に止められた可能性はなかったのか。
学校責任を曖昧にしたままで終わらせていいのか
少年院送致で法的手続きは一区切りついた。しかし社会的検証は終わっていない。
いじめがあったのか。相談はあったのか。学校の対応は十分だったのか。再発防止策は具体的に何を変えたのか。
これらを曖昧にしたままでは、同じ構図は繰り返される。
Xでの再炎上を「今更」と切り捨てるのは簡単だ。だが、本当に終わった問題なら、ここまで強く燃え直すだろうか。社会が納得していないからこそ、再び可視化されたのではないか。
いじめで命を失う子も、追い詰められて加害に及ぶ子も出さないために必要なのは、感情的な擁護や断罪ではない。徹底した検証と、学校文化の改革である。
防げた可能性を検証しない社会に、未来はない。



