
フリーアナウンサーの久米宏さんが2026年1月1日、肺がんのため亡くなった。81歳だった。所属事務所オフィス・トゥ・ワンが13日、公式に発表した。通夜および葬儀は近親者のみで執り行われたという。
テレビの前に座ると、そこには必ず久米宏がいた。
そんな時代を知る視聴者にとって、その訃報は、ひとつの時代の終わりを告げるものだった。
民放報道の空気を一変させた「ニュースステーション」
1985年10月、テレビ朝日系報道番組ニュースステーションがスタートする。
久米さんは、その初代キャスターとして画面の中央に立った。
「中学生にも分かるニュースを」。
その言葉通り、専門用語をかみ砕き、時に冗談を交えながら語るスタイルは、それまでの“硬い報道番組”の常識を打ち破った。ニュースは説明されるものから、考えるきっかけへと変わっていった。
平均視聴率は20%前後。同番組はテレビ朝日の看板へと成長する。一方で、政権批判や社会問題への踏み込んだ発言は、常に賛否と隣り合わせだった。1999年の埼玉・所沢のダイオキシン報道では、地元農家から提訴され、番組内で謝罪する事態も経験する。
それでも久米さんは、報道の現場から退かなかった。
「契約切れ」降板宣言、そして18年半の幕引き
1999年10月、久米さんは生放送中に突然「契約切れ」を理由に降板を宣言する。視聴者に衝撃が走った。
だが3か月後、「戻って来ちゃってすいません」と口ひげ姿で復帰。その姿は、久米宏という人物を象徴するワンシーンとして、今も語り継がれている。
2004年3月26日。
18年半、放送回数4795回で「ニュースステーション」は幕を閉じた。最後の放送で久米さんは、こう語った。
「戦争を知らず、ミスリードしたことのない民間放送を愛しています」
報道に身を置いた者としての、静かな矜持がにじんだ言葉だった。
「ザ・ベストテン」で国民的司会者へ
久米さんの原点は、娯楽番組にある。
1967年にTBSへ入社後、ラジオで頭角を現し、「ぴったしカン・カン」、そして音楽番組ザ・ベストテンの司会で、一躍お茶の間の顔となった。
黒柳徹子との軽妙な掛け合いは、スターの素顔を引き出し、番組を単なるランキング番組以上の存在へと押し上げた。1979年、番組放送中にフリー転身という決断を下したのも、久米さんらしい選択だった。
ラジオ、ネットへ。最後まで自由な表現者
2006年からはTBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」をスタート。2020年まで14年間、語り続けた。
「精神はチンピラでいたい」。そう語りながらも、言葉の根底には常に誠実さがあった。
所属事務所によると、最期は大好きなサイダーを一気に飲んだあと、静かに旅立ったという。その姿は、「ニュースステーション」最終回でビールを飲み干した久米宏と、不思議なほど重なる。
時代をつくった司会者の系譜の中で
近年、みのもんたさん、小倉智昭さん、上岡龍太郎さんら、テレビ史を彩った司会者の訃報が相次いでいる。その先頭に立ち、報道と娯楽の両方でテレビの可能性を押し広げたのが久米宏だった。
久米宏は去った。しかし、問いかけるように語りかけるあの口調は、今も多くの記憶の中で生き続けている。



