
「死について語るなんて縁起でもない」。そんな価値観が崩れ始めている。
お茶を片手に語り合う「デス活」が、いま静かに、そして確かに、若い世代の心をつかんでいる。
「デス活」とは? 死を語ることで生きる意味を見つける
「デス活」という言葉に、あなたはどんな印象を抱くだろうか。
怖い?不謹慎?それとも、少し興味がある?
デス活とは、死(death)と活動(activity)を組み合わせた言葉で、「死」をタブー視せずに語り合うことで、「生きること」そのものを考え直す新しいライフスタイルである。20代、30代の若者たちを中心に、この活動は今、全国に広がりを見せている。
デス活の原点:デスカフェと「語り合う死」
デス活の起源は、1999年にスイスの社会学者ベルナルド・クレッターズ氏が始めた「カフェ・モルテル」、そして2011年にイギリスのジョン・アンダーウッド氏が始めた「デスカフェ」にある。お茶やお菓子を囲みながら、「死」について自由に語り合う──そんな場が世界70カ国以上、1万回以上も開催されてきた。
日本では公認心理師・吉田英史氏が2018年に活動を始め、「デス活」として独自の発展を遂げている。鎌倉や東京などで月に一度のペースで開催され、カフェ、寺院、ショッピングモールなどが会場となることもある。
終活とは違う、“今を生きる”ためのデス活
「終活」が死後の準備を指すのに対し、「デス活」はより内面に向き合う行為だ。
終活では、遺言書の作成や財産の整理、葬儀や墓の手配といった“死後の事務手続き”が主な関心となる。つまり、「死んだあとに遺族に迷惑をかけないための備え」が目的であり、実務的・合理的な要素が強い。
一方でデス活は、「そもそも自分はどのように死にたいのか」「死とは何か」「死を前に、どう生きるのか」といった、より感情的・哲学的な問いに向き合う時間である。準備するための活動というよりも、”考えること自体が目的”であり、そこに正解はない。
たとえば参加者は、以下のようなテーマで自由に語り合う。
- 余命を告げられたら、どう過ごす?
- 死ぬ前に誰に何を伝えたいか?
- 死のイメージとは?怖い?優しい?
- 生きることの意味とは?
そして、この対話には以下の3つのルールがある。
- 否定しない
- 結論を出さない
- 信条を押しつけない
だからこそ、誰もが安心して語れる。誰かを打ち負かす必要も、正解を求める必要もない。むしろ、語り合うことで「生きることの輪郭」が少しずつ浮かび上がってくるのだ。
なぜいま若者が「死」を語り始めたのか?
「死について考えるのは、高齢になってからの話」──そう思っていた時代は、過ぎ去ろうとしている。いま、20代や30代の若者たちの間で、“死”をテーマに語り合う動きが静かに広がっているのだ。なぜ、今なのか? その背景には、現代ならではの社会状況と、若者特有の価値観の変化がある。
1. SNSで死が“日常”に
かつて“死”は、日常とは切り離されたものだった。だが今は違う。
SNSやニュースアプリを開けば、毎日のように誰かの死が流れてくる。事故、病気、有名人の訃報──若者たちは、自分と歳の近い人の死にすら触れる機会が増えている。
こうした環境のなかで、死は「特別な出来事」ではなく、「隣にある現実」として感じられるようになっているのだ。そのリアルな感覚が、「自分の死」「家族の死」について考えるきっかけを生んでいる。
2. 時代の変化と制度の腐敗
かつては、「死ぬ気で働け」「死ぬ気で頑張れ」という言葉が美徳とされていた。
社会に尽くし、会社に尽くせば、老後は守られる──そんな前提が通用していた時代もあった。
しかし、いまや終身雇用は崩れ、年金制度にも不安の声が上がる。将来に対する安心は揺らぎ、努力が必ず報われる保証もない。若者たちはその現実を、肌で感じている。
そんな不確かな時代のなかで、「とにかく頑張る」「長く働く」ことよりも、
「自分がどんなふうに生きて、どんなふうに最期を迎えたいか」を考える人が増えているようだ。
デス活の現場から:棺桶体験、AI遺影、スナックまで
デス活は単なる哲学対話にとどまらない。AIで自分の遺影を作る、実際に棺桶に入ってみる、自らの死についてブログで発信する──そんな体験も、若者たちの間で話題になっている。
それは「死を演じる」ためではない。「死をひとつの現実として受け入れる」ための、疑似体験である。怖がらず、遠ざけず、向き合う。それが、いまの若者の“死生観”なのだ。
死を語れる場所が、人生を支える“居場所”になる
「死について話したい。でも、重いって思われそうで言えない」
そんな思いを、ひとりで抱えていないだろうか。
誰かの死に直面したとき、ふと自分の“終わり”を想像してしまうとき。心の奥からあふれてくる感情を、飲み込んだまま日常に戻ることは、決して珍しいことではない。
デス活の場には、そうした“言葉にならない気持ち”を静かに置ける空気がある。話さなくてもいい。泣いてもいい。ただ誰かが隣にいて、受け止めてくれるだけで、心が少し軽くなる。誰にも言えない不安、孤独、怒り──それらを安心して吐き出せる場があることは、まぎれもなく“生きていること”を支える力になる。
「こんなふうに考えてもいいんだ」
「同じことを感じている人がいたんだ」
そう思えた瞬間、人は不思議と“もう少し生きてみよう”と前を向ける。
死を語ることは、決して不謹慎でも、暗いことでもない。
むしろ、“自分のままでいてもいい”と思える、新しい安心のかたちなのかもしれない。
デス活は、家族や社会との“静かな対話”を生む
「自分がどんなふうに死にたいか」──その問いは、実は「どんなふうに生ききりたいか」、そして「何を残したいか」を考えることでもある。
たとえば、延命治療は望むかどうか。どんな形で最期を迎えたいか。
あるいは、誰に見送ってもらいたいのか。
自分の“いなくなったあとのこと”を、静かに語り合う場面は、これまでタブーとされてきたかもしれない。
けれどデス活は、そんな話題を“日常のことば”に変えてくれる。
無理に明るく笑わなくていい。少し沈黙があってもいい。
大切な人と向き合いながら、「ちゃんと伝えたいこと」が、少しずつ言葉になる。
「娘には、重荷を背負わせたくない」
「母がどんな最期を望んでいたのか、もっと早く聞いておけばよかった」
そんな声が、生きているうちに交わされるようになったなら、それはきっと、人生の終わりを“怖いもの”ではなく、“やさしい準備”に変える第一歩になるだろう。
さいごに──死を語ることは、生き方を取り戻すこと
デス活は、ただ“死の準備”をするための活動ではない。
それはむしろ、「どう生きたいか」を見つめ直す、静かで深い問いかけだ。
死について語ることは、今の自分の生き方に光を当てることでもある。
「私は、これでいいのだろうか?」
「この一日を、大切に過ごせているだろうか?」
もしあなたの中に、そんな問いがふと浮かんできたとしたら
それはもう、デス活が始まっているということかもしれない。
死は誰にとっても避けられない終わりだ。けれど、だからこそ、限りある日々がいとおしく思える。
「明日が来ないかもしれない」と思ったときに見える景色は、きっと、今までとは違って見えるはずだ。
デス活は、未来を悲観するためのものではない。
それは、「今日という一日を、もう少し大切にしたい」と思えるための、やさしいきっかけなのだ。